ぶらっくまんた

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『節分の始まる日』


その日、人間の里は異様な熱気に包まれていた。
まだ寒さが残り山には雪すら見えるというのに、人々からは白い湯気が立ち昇り、瞳には怪しい輝きをたたえている。
全員が一抱えもある枡を手に持ち、里の広場に向かい、無言で歩を進めている。
その様子は死者の行列と言って差し支えないだろう。それに本人たちだけが気づかない。
黄色く濁った瞳は、里の中心に立つ一本の木だけを見つめている。
樹齢数十年のその木はがさがさの樹皮に包まれ、申し訳ばかりの葉をつけた老木だった。
だがその根はしっかりと里の大地に広がり、大人が木登りしても揺らがないほど立派な枝を伸ばしていた。
人々はその木を中心に扇状に広がる。
その扇は南西の方が大きく膨らみ、逆に北東の方は誰一人立っていない。
北東の方には無数の注連縄や御札が貼られ、強力なお祓いがされたことを物語っている。
そして、木の幹には一人の少女が縛り付けられていた。

「……ふーん、こんなに人が萃まるなんて私も人気者になったものだねえ。不精、酒呑のニ角鬼、伊吹萃香。感涙の極みだよ」

その少女を表現するならばまさしく可愛らしいという言葉が良く似合う。
寺子屋に通う童女ほどの背丈。
腰まで届くような長い麦色の髪。
手足は細く柔らかであるが、決して弱々しくはなく、むしろ山猫のようなしなやかな強靭さを感じさせる。
頭からは木の根のような二本の角が天を目指し高らかに伸び、右側の角には青のリボンが結ばれていた。

“小さな百鬼夜行”伊吹萃香。

酒と宴を好み、幻想郷へとやってきた物好きな鬼だ。
いつのものごとく地上に来ていた萃香だが、突然人間に襲われ里まで連れ攫われたのだ。
衣服は靴下から肌着まで全て脱がされ、身体は蛇のように太い縄で拘束されていた。
成長途中の幼い身体にらせん状の跡がついていく様は、人々に邪な嗜虐心をそそらせる。
もしこれが、普段の彼女であれば、こんな縄など木の幹ごと引き千切っているだろう。
それが出来ないのは縄に仕込まれた豆のせいだ。
豆は鬼から力を奪う。
今の萃香はただの少女とイコールである。

「私ら鬼が出て行く前から変わっちゃいないねえ。罠を張り、知略をめぐらし、卑劣な行為を妙案と言い張る。とはいえ、訳ぐらいはあるんだろう? いきなりのこの歓迎を説明して欲しいんだけどねえ」

だが、それでも萃香は抗い続ける。
言葉で心に忍び寄る一方で、縄に力を込め、抜け出すチャンスをうかがっているのだ。
この強かさこそが萃香を鬼の異端児とすると同時に、生き抜く力となっているのだ。
だが、その言葉を聞いた里人たちは瞳の奥のドス黒い炎に、薪をくべられた思いだった。
泥のような粘着性の憎悪があふれ出し、萃香の首を締めんと迫る。

「……何なんだよ、あんたたち」

その異様な様子を察知したのか、萃香の口調から余裕が陰る。
百戦錬磨の萃香だからこそ、無数の人間が一様に自分を見つめる様子には感じるものがあると見える。
それに対し、人々はただ無言。無言で萃香を睨みつけている。
震える手で枡を持ち、今にも飛び掛りたいところを必死に自制している。
そのことがかえって萃香には異様に映った。

やがて、人の壁の中から一人の男が現れた。
この里の里長だ。
その髪は無残に抜け落ち、身体は骨と皮だけ残ったように痩せこけていた。
顔には深いしわが刻まれ、黒ずんだ眼孔とあいまって、墓場から出てきたゾンビのようだ。
彼は木の前に立ち、集まった何百の里人を一望した。
一拍の深呼吸。

「みんな良く集まってくれた。大いなる悲しみを乗り越えた今、ここに居並ぶ里の者たちは鉄よりも固い絆で結ばれているのだと、今一度知ることができた。さて、今日の祭の主旨は知っての通りだ。この里に不幸を持ち込んだ不届きな鬼を払う!!」
「なっ!? ま、待てってよ爺さん! 何の話だい!?」
「黙れ! 邪気が出る!!」
「がぇっ!!」

慌てて萃香が口を挟むが、萃香の言葉を遮り、里長は萃香の腹を殴りつけた。
普段の萃香なら蚊が止まったほどの打撃。
だが今の萃香には巨岩に押し潰されたかのような衝撃だった。
思わず目の中に火花が散り、言葉を空気ごと吐き出してしまった。

「みなのもの! 聞け!!」

里長は叫んだ。
大仰に手を広げ、どこからそんな大声が出るのか不思議なくらいの音量で、居並ぶ里人にその滾りの限りを吐き出した。

「五十四! 五十四! 五十四ッ!! この数字が何かわかるか!? そう! そうだ!昨年の飢饉により死んだ仲間たちの数だ! 五十四もの尊い命が奪われた! それは何故だ!! 答えよ!! 我が里のかけがいの無い命を奪い去ったのは誰だ!!」

「「「「「「「「「「鬼のせいだ! 鬼が不幸を運んだせいだ!!」」」」」」」」」」

「ちょ!? ちょっと待――」

今まで黙っていた里人たちが洪水のような声を返した。
萃香はその言葉を否定しようと声を上げるが、人々の怒号に飲み込まれてしまう。
萃香の言葉は彼らに届かない。
荒れ狂う言葉の波が萃香の身体を打ちつける。

「鬼は災いをもたらす! 鬼は払わねばならん!!」
「「「「「「「「「「そうだ! 鬼を追い払え!!」」」」」」」」」」

「鬼を払え!!」
「「「「「「「「「「鬼を払え!!」」」」」」」」」」

「鬼に豆を!!」
「「「「「「「「「「鬼に豆を!!」」」」」」」」」」

「鬼を殺せ!!」
「「「「「「「「「「鬼を殺せ!!」」」」」」」」」」

「みなのもの!! 祭を始めよう!! “節分”の祭を始めよう!!」
「「「「「「「「「「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」」」」」」」」」」

「――――ひっ!!」

里長が萃香の前から立ち退いた瞬間、人々は怒号と共に手にした枡から何かを投げつけてきた。
クリーム色の小さな粒。大豆だ。
適度に炒られた大豆は軽い音を立てながら、萃香のもとへと降り注ぐ。
これが人間ならば嫌がりはすれど怪我などにはつながらないだろう。
一粒一粒が小指の爪ほどしかない豆だ。全力で投げても痛みすら与えられるかどうか。
だが萃香は投げつけられるものが大豆とわかった瞬間、今までに無いほど顔をひきつらせた。

「ま、まめ!? やっ! やめろっ!! うぐぅ! あああああああああああああっ!!」

萃香の肌に大豆がふれた瞬間、まるで硫酸でもかけられたかのように爛れていく。
みるみるうちに萃香の肌は赤く染まり、できもの一つなかった綺麗な肌はどこにも見えなくなっていった。
その中にも強く当たった部分と軽く当たった部分があるようで、内部の筋肉質まで届き赤紫色となかった部分と薄皮を剥いだだけの薄ピンク色がまだら状に広がり、ますます醜悪さを増していく。

同時にむせ返るような異臭が広場に広がった。
それは血と肉が焼ける匂いだ。
吐瀉物をそのままオーブンに入れたような匂いは、正常な者が嗅げば、すぐにでも嘔吐しそうな激臭であった。
だが、ここにはそれを不快と感じるものはいない。
その匂いこそ鬼を蹂躙し、払った証拠だからだ。
気丈で怖いもの知らずであったはずの萃香は、みっともなく髪を振り乱し、少しでも大豆を避けようと縄の中でもがいている。
だが、それは余計に満遍なく大豆をぶつけられる結果となり、耳の裏や首筋まで大豆がぶつけられ、そのたびに萃香はますます身をよじった。

「や! やだ! いやああああ!! 痛い! くぅ! があっ!! やめろおああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

悲痛な叫び声が上がる。
だが、のどを千切るような悲鳴を聞いても、里人の豆をまく動作にはいささかの躊躇も生まれない。
むしろ、その“鳴き声”を不快に思い、さらに豆を投げる手に力がこもる。
数百人分の豆は萃香を埋め殺せるほどの量だ。
次々とぶつけられる豆、豆、豆。
目の前を埋め尽くすほどの豆が萃香を襲う。
そして、それに込められた憎悪もまた萃香に襲いかかった。

「死ね! 死ね! 死ね! お前のせいでうちの父ちゃんは死んじまったんだ!!」

「返してよ! 私の赤ちゃん返してよ!! 返して!! 返してっ!!」

「お前らのせいで、俺は、俺は実の親を!! うわああああああああああああああっ!!」

「鬼は外! 鬼は外! 鬼は外っ!! この里から出て行け!! 出て行けよ!! 不幸を運ぶ疫病神め!!」

「知らない! 知らないよ! 私はそんなこと知らないよ!! 鬼は! 鬼はそんなことしない!! 飢饉だとか、なんだとか、そんなことはしないよおおおお!!」

萃香は叫ぶ。それは真実の言葉だった。
萃香は宴会を好み、人心を惑わして何度も宴を開かせたことはあったが、飢饉や人攫いだとかには無縁だった。
より正確に言うならば、幻想郷の巫女によってそれらは防がれた。
そもそもこの人間達に無理矢理萃香はここまで連れてこられたのだ。それを追い払うとはどう考えても道理に合わない。
だが、そんなことは人々には関係ないことだった。

彼らが求めているのは“理由”なのだから。

「いだい……やめぇ……ぃっ……やめておくれよぉ…………うぅ…あ……ああ…………」

端整な顔は蝋が溶け出したかのように崩れ、口からは白い泡が吹き出す。
意志の強そうだった眉は八の字に曲げられ、不敵に笑っていた唇は血で汚れている。
左目は大粒の大豆が直撃し、まぶたがこぶのように腫れ上がってしまい満足に開くこともできなくなっていた。
まるでカサブタを数百倍にしたような傷が手足に浮かび、筋肉の細い繊維が見え隠れしていた。
血とも体液ともつかない混合物が身体から染み出ており、それがぬらぬらと萃香の身体を照らしていた。

「あ……あ…………私の顔が…体が………」

投げる豆がなくなったのか、里人たちは一旦手を休めた。
先ほどまで威勢よく騒いでいた萃香が悲惨な姿になったのを見てわずかなりとも溜飲が下がったのか、代わりに嗜虐的な笑みを浮かべている。
『いい気味だ』。
彼らの目はそう語っていた。
それを否定する気力も失い、萃香はただ弱々しく里人を見つめていた。

「少しは懲りたか?」

いつの間にか里長が萃香の目の前に居た。
どうやら左目は完全に視力を失っているらしい。治るかどうかはわからない。
それを理解してしまった萃香は、顔を歪ませ泣き出しそうになる。
だが、萃香は痛みで壊れそうになっている心を奮い立たせた。
『鬼はうそをつかない』。
それは萃香の中にある鬼としての最後の意地だった。

「鬼は…不幸なんて……運ばない………あんたたちの里が……どんな目にあったか………知らないけど……それは私らとは関係ないよ………」
「まだしらを切るか! 鬼めがっ!!」
「――っ! がぎゃああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

その瞬間、里長が手に持っていた大豆を萃香の顔面に擦り付けた。
無論、里長には何の痛みも無い。むしろツボのマッサージになって気持ち良いくらいだ。
だが萃香には地獄の苦しみだった。
ただでさえ爛れていた顔に、さらに大豆を擦り付けられる痛み。
例えるならば、火傷をした皮膚に唐辛子を擦り込まれたようなものだ。
直に神経をえぐられる痛みに、萃香の身体は水揚げされた魚のように跳ね上がる。
大豆を押し付けられた箇所からは白い煙が上がり、ジュウジュウと肌の焼ける匂いが広場に響く。

「どうだ! 痛いか! 苦しいか!? これは里人の痛みだ!! 死んでいった者の苦しみだ!! 我らの受けた傷はこんなものではなかったぞ!! これでも自分の非を認めないというのか!!?」
「うぎゃああああっっ!! っい! ぁついぃぃっ!! 焼ける! 焼けちゃうぁあああああああっ!!」
「言え! 言ってみろ! お前の罪を! お前の罪を言ってみろ!!」
「やあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

がくがくと足を震わせ、萃香はついに失禁してしまった。
陰毛すらない股間から溢れた尿は、太ももを伝って流れていく。
その流れにさえ萃香は痛みを覚え、身を跳ねさせる。
黄色い尿は、くるぶしを越え、つま先から地面へと滴る。
すぐに薄黒い染みが茶色の土に広がっていく。
萃香の股間からは冬の外気にさらされた、白い湯気が立ち昇っていた。

「やだ! あの鬼、お漏らししてる!」
「きったねえなあ!」
「ったく、広場が臭くなるだろうがクソ鬼!」
「やっぱり、鬼って最悪ね! 臭いわ、汚いわ、不幸は呼ぶわ!」
「恥じらいってもんがねえのか!! ああ!?」

痛みと恥辱の中で萃香は人々の声を聞く。
だが、萃香にできることは歯を食いしばり、耐えることだけだ。
痛みと悔しさと意地。
それだけが今の萃香を支える唯一の線。
それを手放せば、己が失われると萃香は理解している。
だからこそ、最後の一言をいう訳にはいかなかった。

「聞こえるか、小便漏らしの鬼娘」
「……もうやめておくれよ」
「ならば、飢饉は鬼の仕業であったと認めるんだな」
「ちがう、ちがうよ……わたしたち鬼は…………」
「ふん。鬼は二枚舌と見える。人を攫い、人を喰らい、人を殺してきた鬼が。人に不幸しかもたらさぬ鬼が! あくまでもしらを切るのなら……おい!」

里長の声を受け、若い男たちが大きな酒樽を運んでくる。
手足を丸めれば人間一人はゆうに入るサイズだ。それが萃香の目の前に置かれた。
どうやら中には何も入っていないようで、軽い音が返ってきた。

一方で萃香を木に縛り付けていた縄が解かれていく。
だが、あらかじめ萃香は手足を同じ縄で縛られていたため、逃げることは叶わなかった。
だが仮に縄を解かれたところで、今の萃香に逃げ出す力が残っているかははなはだ疑問であるが。
男たちはテキパキと萃香の足にもう一本の長い縄を通していく。
そして太い幹に縄をかけ、萃香を逆さに吊るし上げた。
それはちょうど萃香の真下に樽が来る位置だった。

「な、何を……」

萃香が逆さの世界で見たのは、投げた豆を黙々と拾う人々だった。
萃香に投げつけた豆の一粒一粒を病的なまでの正確さで拾っていく。
そして、枡一杯になった豆を酒樽の中に入れていく。
大豆が酒樽に入れられるたびに、乾いた音が萃香の耳に届く。

「ね、ねえ……」
ざー。

「ま、まさか……」
ざー。

「う、うそだろ? うそだと言っておくれよ」
ざー。ざー。ざー。

「や、やだぁ……っ! や、やだぁぁぁぁぁ!!」
ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。ざー。

酒樽の中には溢れ出るほどの豆。
その上で揺れる萃香は今までに無いほど恐怖で顔を歪ませていた。
歯の剥き出しになった口を引きつらせ、ピンクのほほはぴくぴくと痙攣をしている。
萃香の想像が、おぞましくも正しいのならば、今までとは比べ物にならない痛みが身体に襲い掛かってくるはずだ。
長く垂れた髪が誰かに掴まれる。
萃香の髪を荒々しく掴んだのは里長だ。
彼はほがらかな笑みを浮かべ、萃香に語りかけた。

「鬼は酒が好きだと聞く。我々の酒を是非とも味わってくれ。あまりの美味さにほほが落ちないように注意してくれよ?」
「う、うそだよねえ? ほ、本気でそんなことするわけないよねえ? 私は何もしてないんだよ? なのに、なんでこんな――」
「さて、準備はいいか?」

いやいやと首を振る萃香。
無事な右目からは涙が浮かび、眉は弱々しく曲がった。
赤に染まった鼻先からは鼻水が無様に流れ、血と様々な汁が混じった液体がぽたぽたとクリーム色の豆の詰まった酒樽に落ちていく。
もはや鬼の威厳も威勢もあったものではなく、今目の前にある恐怖から逃げることだけで頭がいっぱいだった。

……助けて。
そう萃香のくちびるが形を作る。
里長は満面の笑みを浮かべた。

「できぬ相談だ」
「や――」

萃香を吊るしていた縄が、離される。

「ぎゃやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

萃香の身体は豆で充満した酒樽の中へと落とされた。
瞬間、猛烈な煙が上がった。
無数の豆が萃香の身体を焼き、焦がし、爛れさせていく。
豆まきとは違い、常に密着した状態の豆は萃香の身体を簡単に溶かしていく。
そこには地獄の釜茹でが再現されていた。

「ああああああっ! いぎぃいぃいいいぃぃい!! おっおっおっおおおおおおおおおおおおお!!」

まるで絶頂したかのような萃香の叫び声。
背骨が折れるほど身体を反らし、大豆から逃れようと暴れまわる。
だが、その行為もいくばくかの豆を外に放り出せただけの徒労に終る。

里長はきっちり百数えてから、萃香を引き上げるよう指示した。
縄が引かれ、萃香の身体が中へ浮く。
胸の当たりまで赤が広がり、萃香は全身を痙攣させていた。

「ぅ……ぁ……ぁぁぇぁ…………」

虚ろな目に映ったのは、どこまでも穏やかな人々の笑顔。
中には感極まり泣き出すものさえいた。

『これで里に福が来る』
『これで死んだ者たちも救われる』
『これで私たちも許される』

そう本気で信じている顔だった。
その顔を見たとき萃香は悟った。

 

自分は本当に、憎まれているのだと。
彼らは自分を痛めつけることで救われるのだと。

 

萃香の視界がぐにゃりと歪んだ。
人々の顔が粘土のように崩れていく。
口は裂け、髪は角のように伸び、男女の区別なくおぞましい姿となる。
それは奇しくも、人々が思い描く鬼の姿に似ていた。

里長が指示し、再び縄が離される。
先ほどの焼き直しだ。
萃香の絶叫が木を揺らす。
産毛が焦げ、皮膚が焼ける。
人を焼いた時の、とてつもない悪臭。
『鬼は豆をぶつけると悪臭を放ち、逃げようとする』
そんな笑い話が里に広まり、酒の肴とされるようになったのはこの日からだという。

 

 

◆     ◆     ◆

 

 

昨年、人間の里は大飢饉に襲われた。
それは赤い霧が里を覆ったせいでもあるし、一昨年の冬が長引いたせいでもあるし、異常気象が続いた日々のせいでもある。
これらは豊穣の神の力を軽く越え、結果冬の人間の里は致命的な食糧難に襲われた。
それらがどんな答えを導き出すかは想像に難くない。

十分な貯えがなく、草の根や砂を齧りながら餓死していく者。
食い扶持を減らすため、老人や赤子を山へと捨て去る者。
栄養が足りず、子どもを流産してしまう者。
ついに他人の家から食料を奪いだす者。
里の離れに住む一家は里への道も雪で埋まってしまい、助けを呼ぶこともできない状況になっていた。冬の間にわずかな食料を巡って親族同士の殺し合いにまで発展し、大黒柱だった男だけが生き延びた。その男が何を食べて生き永らえたのか、問う者は誰もいない。
ようやく冬が開けた頃、五十四人の死者が確認された。

人々は“理由”を求めた。

辛い季節の中で仲間が死んでいった“理由”。
大切な家族を捨てざるを得なかった“理由”。
生まれようとしていた我が子を流産してしまった“理由”。
ついに、人の身で餓鬼道へと落ちてしまった“理由”。

自然災害だとか、運が悪かっただとか、そんな誰にもぶつけようのない理由ではだめなのだ。
この怒りと悲しみは確固たる形として何者かにぶつけられねばならない。
そして、とある妖怪が教えた“節分”の行事が、彼らに“理由”と“方法”を与えた。
『鬼は不幸を呼ぶ。それゆえに節分と言う祭を行い、里に住み着いた鬼を払わなければならない』
萃香は運悪く、その生贄に選ばれた。

それだけだった。

 

 

◆     ◆     ◆

 

 

――夜。

豆まきを終え、大半の人は元の生活に戻り、生き残った家族や知人と団欒の時を楽しんでいた。
だが、人一倍鬼への恨みが深い者たちは萃香へとその全てを吐き出そうとしていた。
里の外れの小屋では、男たちが集い萃香を囲んでいる。
むせ返るような男の匂いと熱気の中、萃香の意識はどろどろに溶けていく。

 

「おら! もっとアゴ使え! くちびるを窄めて吸うんだよ!! ったく! 見た目もガキならテクもガキかよ!?」
「う……ぶぅ!……ぉおお!」

二本の角を掴まれ、乱暴にフェラチオをさせられる萃香。
のどの奥を亀頭で突かれ、激しくえずくが、吐くことさえ許されない。
萃香の顔は大豆の海に溺れ、人体模型のように赤い筋肉や血管を浮かび上がらせていた。
口を中心に外側に伸びた筋肉の筋、顔面筋。
喜怒哀楽の表情を作り出すためのその筋肉は、見えてしまえばひどく醜悪で、鮮やかすぎる赤色が白い肌に異彩に映る。

顔だけではない。腕も胸も腹も足も無事な箇所などもはや一片たりとも残っていなかった。
昼間、気狂いのように豆をぶつけられた結果だった。
木に縛られていた時は無事だった背中も、夜の責めですっかりミミズ腫れのような痕が刻まれていた。
吹き出た血は鬼の再生力で凝固し、赤黒く変色して、身体のいたるところに張り付いている。
大豆を口の中に押し込まれてからは味覚もなくなり、口内の皮はべろべろに剥がれていた。どうやら左目は完全に失明してしまったようで、黒目まで白濁し、何も無い上部を見続けていた。
当然のごとく服は着せられることなく、代わりに特製縄が身体を巡っているため、萃香は常にじりじりと身を焼く痛みに耐えねばならなかった。
首には大豆を編んで作った首輪がはめられ、ご丁寧に『便鬼女』と名札まで下がっている。

そんな萃香を、男たちは冬の間溜め込んだザーメンを搾り出すように犯し続けた。
当然ながら、そこに萃香への配慮や子作りに対する神聖さなど感じられない。
ただ乱暴に性欲の捌け口にしているだけだ。
鬼を追い払うという“理由”を持って、それは正当化され、萃香の身体を余すとこなく犯していく。

「おおぉ!……はっ……ああ………っ!!」
「くそくそくそ!! あいつの膣内はこんなに気持ち悪くなかったぞ! あの温かさを返せよ!! クソ鬼が!! そら! 膣内に出してやるぞ! 滅多に味わえない人間様のザーメンだ!! 感謝しろよ!!」
「い……ひゃ…っ……やめ……な…ひゃ……やめえっ!」
「射精る! おおおおおおぉぉっ!!」

萃香の中で白い滾りが弾け、子宮の中に流れ込んでいく。
へその下に熱い液体が溜まっていくのを感じ、萃香は呆然と目を見開いた。

「あっ…あっ……で…出てる………私…また……膣内出しされちゃったの……?」

男が肉棒を引き抜けば、秘所から白く濁った精液が流れ出てくる。
だが、それが出終わるよりも先に、次の肉棒が萃香の秘所に挿入される。
菊座にも男根を突き入れられ、もはや萃香に穢れていない場所など残ってはいなかった。
もはや発情期の犬さえ襲わないほど、萃香の身体は汚れきってしまった。

「……………………………もう……やめておくれ……よ」

以前の豪快な振る舞いは身を隠し、萃香はそこらにいる少女のようにしおらしく男たちに懇願する。
大豆は萃香の身体だけでなく、心までも蝕んでいったようだ。
何を謝っているのかも、何が悪いのかも萃香にはわかっていない。
だがみっともなく謝罪し、無様な姿を見せれば人間たちは満足するのではないか、というわずかな希望のために萃香はイカ臭い床に顔を擦りつける。
涙で顔をぐしゃぐしゃにし、男たちに土下座をする萃香。
そこにはかつて山の四天王と呼ばれた鬼の姿はない。

その無防備な背中に鞭が振るわれ、萃香は「あひぃ!」とブタのような声を上げた。
その鞭の色はクリーム色。
大豆に糸を通して作った特別製だ。
本来ならば、肉はおろか皮さえ傷つけられないような貧相な鞭。
だが、それは萃香にとって本物以上の効果を持つ。

「謝れば許してもらえると思ってるのか!」
「そうやってガキみたく泣き喚けば、死んだ連中が帰ってくるのかよ!!」
「死ね! 死ね! 死ね! それだけがお前に許された自由だ!!」
「や、やめでぇ……………!」

鼻声で謝罪を続ける萃香。
それを見て、事の成り行きを見守っていた里長が近づいてきた。
その姿を見た瞬間、萃香は床に額を擦り付け、震えだした。

「お前の何が悪かったか言ってみろ」
「…あ……あ………私が鬼だから…………鬼が不幸を運ぶがら……」
「そうだ。鬼は不幸を運び、五十四人もの命を奪った。鬼は存在そのものが悪なのだ」
「…………ッッ」
「認めるのだな?」
「……み、みどめる……みとめるからぁ…………!」

ずりずりとザーメンの水たまりに顔を浸して、萃香は何度も懇願した。
それを見て、里長は「ふむ」と頷いた。

「ならチャンスをやろう。もし、これから言うことを聞くならお前は助けてやる」
「……ほ、本当………?」
「ああ。もちろんだ」

萃香はゆっくりと顔を上げた。
爛れた顔に白濁液のかかった様子は見るに耐えるものではないが、里長は表情を崩さなかった。
そして、満身創痍の萃香の前にノコギリを投げてよこした。
薄い鉄板が転がり、軽い音を返す。

「………………………………え?」
「そいつで自分の足を落とせ。足がなければ二度とこの里に入ることもできまい」
「え、あ、足? 足を切る?」

萃香は里長が何を言っているかわからなかった。
目の前に横たわるノコギリ。
大木さえ切り開くそれを走らせれば、萃香の細足など軽く落とせるだろう。
だがなぜそれをしなければならないかが、萃香にはどうしても理解できなかったのだ。

私はもう絶対にこんな里には来ない。
人とも関わらない。命に誓ってそんなことしない。
それじゃあ、足りないの?

「どうするんだ? やるのか? やらんのか?」

里長の言葉が遠い。
よく見れば、ノコギリには赤い錆が浮いている。
刃もがたがたで、仮に力いっぱい引いたとしても足を切り落とすには相当な時間がかかるだろう。
同時に酷い苦痛も。
萃香は想像した。
想像してしまった。
時に想像は現実さえ超える痛みとなる。

萃香の閉じてしまった左目からも涙が浮かび、口をぱくぱくさせながら萃香は首を振りかけた。
だが、同時に気付く。
里長たちの顔に。
彼らの顔は、酷く無機質だった。
もはや何も感じるところもない、といった顔。
目の前に落ちている石を跨ぐか蹴るか考えているような顔。
彼らは萃香の感情などもはやどうでもいいのだ。
もし萃香が足を切れば放り捨てるし、切らなければ適当に痛めつけたあと殺すだけ。
彼らの前提にあるのは、二度と鬼が里に入らないこと。
その過程が多少変わろうとも、彼らには何の問題はないのだ。

萃香はノコギリを手に取った。
大豆の痛みが、嘲笑された悔しさが、男たちに陵辱された苦しみが萃香の胸の中を満たす。
でも、
それでも、
萃香の中には温かな記憶があった。
その目に映るのは共に酒を呑み交わした仲間たち。

勇儀、ヤマメ、キスメ、パルスィ……!

彼女たちならきっと足を失った萃香でも温かく迎えてくれる。
痛みを癒すまで側にいさせてくれる。
再び酒を飲み交わすことができる。

それは都合の良い妄想なのかもしれない。
だが、萃香には唯一の希望だった。
絶望の淵から助け出してくれる唯一の光だった。

(…………そうさ……あいつらがいるなら………私は耐えられる。勇儀…ヤマメ…パルスィ……。私は、絶対に帰ってくるよ!)

 

「う…あ……うわああああああああああああああああああああっ!!」

 

刃の欠けたノコが足の上を走り、薄く皮を傷つけた。
さらに引く。
皮が破れて、血が溢れ出す。
血。
血だ。
赤々とした命の水が流れ出していく。
だが、ノコは止まらない。
肉を裂き、脂肪や筋肉を断ち切り、遂には骨にまで届く。
ごりごりと骨を削る振動が萃香を襲う。
カルシウムに刃がかかるたびに、萃香の軟骨が振るえ、骨の中にノコが進入してくる。
強靭なハバース管を越えてしまえば、刃は骨髄まで届く。
造血作用のある骨髄は赤色をしており、流れ出た血を混じり、ノコの刃に消えた。
ブチブチと繊維を切り刻み、萃香はノコを引き続ける。

なんのことはない。
想像よりも現実は遥かに痛かった。

「がぁっ!! は――っ!! ぐぅ! っぐぅぅぅぅんっ!!」

細い足はマネキンのように床へと転がる。
それは実に現実味のない光景だった。
だが、足先に残る焼け付くような痛みは夢とは思えない。

「まだもう一本残っているぞ」
「ぎっ! うぐぅぅぅぅぅぅぅぅっっ!!」

すぐに右足にノコを向ける。
様々な欠片がこびり付いた刃が見えるが、無視してノコを右足に添えた。
ここで休めば、頭が正常に戻ってしまう。
今は狂わねばならない。
まともな頭で耐え切れるはずがない。
萃香は汗でべとべとの柄を今一度しっかりと握り直し、ノコを引いた。

「ぎっ、ぐぅ! おぅうおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

痛みを大声でかき消しながら、狂ったように萃香はノコを引いていく。
途中何本も刃が折れたが、完全に無視した。
無数の太陽の輝きが右目に走る。
もはや何をしているかも忘れ、ただただ腕を動かすマシーンとなっていた。
最後の一引きを終え、右足も力なく床へと落ちた。
どくどくと流れ出る鬼の血。
もう、取り返すことはできない。

 

 

「……よし。これでお前が再び里に来ることはなかろう」
「来ないよ……もう………こな……いよぉ………」

もはや動かすもののなくなった両足を見ながら萃香はつぶやいた。
切断面は赤黒く変色している。
男たちが止血と称して、大豆の上に置いたせいだ。
事実血は止まったが、萃香はここでも絶叫に身を狂わされた。
小屋の外はゆっくりと朝日が昇り始めていた。

 

 

◆     ◆     ◆

 

 

夜が開けると、そこには一面の青空が広がっていた。
鬼を払い、邪気が去ったのだと里人は手を取り合い喜びを分かち合った。
全ての遺恨を胸へとしまい、農具を手に畑へと出て行く里人を見て、里長は涙を流した。

五十四人もの人が死に、村は死へ向かった。
それは単純な人口の問題ではない。
大切な人を失い、あまつさえ禁忌を犯し、人間性さえ捨ててしまった日々。
それは里人に深い傷を残し、里人を自責の念に捕らえ、生きる希望を失わせていた。
行き場所の無い憎悪は自身へと向かい、その身を滅ぼそうとしたのだ。
事実、助かった命を捨て、自害を持って贖罪としようとした者もいるほどだ。

だが、その憎悪を節分という行事と明確な敵であると定義された鬼へ向けたおかげで人々は再び生気を取り戻した。
明確な目的を見つけ、里人は死者から生者へと蘇った。

「これも全て八雲様のおかげです! 感謝してもしきれません!」
「いいのよ。里長さん。顔を上げて」

幻想郷の賢者、八雲紫は土下座をして礼を述べる里長に優しく語りかけた。
その顔は慈愛の笑顔に満ちている。

「幻想郷のバランスは人間と妖怪両方がいなければいけないの。そのための協力ならいくらでもしてあげるわ。外の世界から豆を取り寄せるくらい何の労力もないわ」
「はい。おかげで里人も気力を取り戻しました」
「いい行事でしょう、節分。人間誰かに怒りをぶつけたくなる時もあります。理不尽な仕打ちを受けたのならなおさら、ね」

紫の言うことはある意味では正しい。
強烈なストレスはどこかで発散せねばならない。
それが自身に向かい、破滅願望にさえなりかねない状況ならばなおさらだ。
それに対し、何ものかに責任を押し付け、その全てを吐き出すというのは正しい治療法の一つだといえる。
とにかく一時でいいので、全ての責任を誰かに委ねる。そして自身を肯定する。
そのプロセスを経れば、人はまた新しい日々を歩みだすことができるようになれるのだ。
無論、発散される側を無視した話ではあるが。

「しかし、本当に大丈夫なのでしょう?」
「なにがかしら?」
「あの鬼です。あの状態では報復などできないとは思いますが、仲間に知らせたりとかは……」
「それなら大丈夫よ」

萃香の持っていた伊吹瓢を撫でながら紫は嗤う。
それは昨日萃香を痛めつけた里長ですら、顔を引きつらせるような素敵な笑みであった。

「あの子、今頃どうしてるかしらねえ?」

 

 

◆     ◆     ◆

 

 

萃香は妖怪の山にゴミのように捨てられた。
全身に出血の後とカサブタが残り、片目と両足を失った姿はとてもあの鬼とは気付かれないだろう。
萃香は両腕を使い、裸のまま森の中をさ迷う。
大豆こそ外されたが、今の萃香は低級妖怪にさえエサにされるほど弱っていた。
能力を使って霧になろうともしたが、それもできなかった。
体力が足りないのか、それとも大豆によって能力さえ奪われたのかはわからない。
かつて自身を誇示するために働いた角を必死に隠し、草むらの中を這いずりながら進む。
それが萃香にできることの全てだった。

「ゆうぎぃ……やまめぇ……ぱるすぃ……、誰か……誰か…………」

ぶつぶつとつぶやきながら、両腕で萃香は這いずった。
その声さえもはや以前とは比べ物にならないしわがれたものになっていた。
鋭い葉がほほに当たり、血がにじむが、その程度はもはや気にならなくなっていた。
目指すのは妖怪の山にある地底界への入り口だ。
そこにさえたどり着けば、友人の誰かが助けてくれる。
それは萃香に残された最後の希望だ。
酒を飲み交わし、共に地底で生きてきた仲間たち。
彼らの姿を思い描きながら、萃香は泥の中を這いずり進む。

「そうだよ……。地底に帰って酒を呑むんだ……。とっときの酒だよ。それを皆に振舞うんだ……。みんで呑む酒はうまいだろうなあ……。みんなも喜ぶよ……。あと、少し……あと、少しで……」

日が傾き、地平に沈もうとしている頃、ようやく萃香は地底に続く穴を見つけた。
あと五十メートルといったところ。
どうやら今日中にはたどり着けそうだ。
そう確信を持て、萃香の腕のスピードが上がる。
目に見える形で希望を見たとき、人はそれにすがりつく。
だがそれは、同時に周囲への注意を散漫にさせてしまう。
穴まで残り五メートル。
萃香の顔が希望で明るく輝いたとき、
その背後から黒い影が迫った。

「―――――え?」

振り向いた瞬間、影に弾き飛ばされた。
鋭い牙に引き裂かれ、萃香の胸元に三本ほどの血筋が刻まれる。

「痛っ!! な、なに!?」

腕をばたつかせて姿勢を戻したとき、萃香の目の前に地獄の淵のような口が迫っていた。
咄嗟に両腕で口を掴む。
だが、相手は全体重をかけて萃香の喉元に食いつかんと牙を伸ばす。

萃香は運悪く山に住む妖怪に目をつけられたのだ。
恐らく山犬のたぐいだろう。姿は犬に似るが大きさは牛ほどもある。
その四肢には鋭い爪が生え、身体も針金のような黒い体毛で覆われている。
両の手では足りぬほどの人の肉を食らったのであろう、牙は黄色く変色し、隙間に肉片が挟まっている。

普段の萃香なら話にならぬ相手。
だが、今の萃香には絶望的な敵だ。
足のない今、腕だけで攻撃をしのぐので精一杯だ。

「ぐ…っ……お、お前なんかにぃ……っ!」

全力で押し返すが、萃香の腕は悲鳴を上げるようにがくがくと震える。
焼け爛れた皮膚が破れ、膿と血が混じったものが流れ出す。
ゆっくりと腕が下がりだす。
鋭い牙が喉元まであと三センチに迫る。

「負げない! 負げない! 負げない!! 私は帰るんだ! みんなが待ってる場所に! みんなで笑って、酒呑んで、楽しく暮らせる世界に帰るんだ!!」

思い出すのは地底での日々。
幻想郷に愛想をつかせて、地底に移住した頃は全てが手探りだった。
地上と地底では何もかも勝手が違っていて、さとりたちの助力がなければどうなっていたかわからない。
旧都を鬼の都に変える間はただただ忙しかった。考える暇すらなく、時間は過ぎていく。
その間も、酒飲みだけは忘れなかった。
時には強引に友を誘って、無理矢理飲ませた。
宴会の後は散々な有様だったが、みんな突き抜けた楽しさを分かち合っていた。
やがて、鬼以外の妖怪とも仲良くなった。
もちろん手段は酒だ。酒は良い。全てを平等に曝け出し、全て平等に包んでいく。
だけど、やっぱり地底にいるのは退屈で、萃香は地上へと戻ることを決めた。
止める連中は多かった。第一、地上に出ることは禁じられていた。
それでも萃香は地上へと出た。楽しいことこそがここのルールだ。
そして、かけがえのない出会いを経験できた。

ここで諦めれば全ては終わる。
今までの思い出は全て気泡になってしまう。
終らせるつもりなんかなかった。
終らせてはいけない。
萃香は満身の力を込めて、山犬を押し返す。
その命をかけて。

「きゃん!!」

牙が萃香の首の皮を傷つけ、薄く血があふれ出した瞬間、山犬が蹴り飛ばされた。
まるで普通の子犬のような悲鳴を上げて、森へと逃げていく山犬。
それを追い払ったのは赤い角を持つ、長身の鬼だった。

「うるさいねえ。この穴は立入り禁止だよ」
「勇儀っ!!」
「あん? 誰だいあんた……って萃香かい!?」

長身の鬼、星熊勇儀は萃香を見て、すっとんきょうな声を上げた。
変わり果てた友人の姿を見て、目を丸くする。

「こりゃまたこっぴどくやられたねえ」
「勇儀っ! 勇儀ッ! 勇儀っ!! 会いたかった! 会いたかったよ! 見てよ! 見ておくれよ! 人間がやったんだ! 痛いんだ! 痛いんだよ! すごく痛い!! 助けておくれよお、勇儀!!」

萃香は勇儀にすがりつくように、両腕で這いずる。
涙を流し、焼け爛れた顔で近づいて来る様子はどこぞのお化け傘に見せてやりたいほどおぞましいものだった。
だが、萃香の方は喜びでそれどころではない。
百年来の心友にあったかのように、あるいは砂漠で水を見つけたように、勇儀へと向かっていく。
その視界は水の中のようにぐしゃぐしゃで勇儀の顔もよく見えない。
それでも、そこにいる赤い角の鬼女を目指して、萃香は最後の力を振り絞って近づいていく。
勇儀の手が、萃香に指し伸ばされた。

 

 

「萃香」
「勇儀……っ。ごめん、顔が見えないよ」

 

 

 

 

 

 

 

「お前うざいよ」

 

 

「………………………………………………………………………………ゆう…………ぎ?」

 

 

勇儀の腕が萃香の首を掴んだ。
萃香の視界が反転する。
ぐんぐん勇儀との距離が離れていき、強烈な痛みと振動が身体を襲う。
投げ飛ばされた。
萃香がそう気付くには、十秒近くの時間がかかった。

萃香が再び勇儀に向かおうと顔を上げる。
だが、その瞬間身体を固めてしまった。
勇儀が自分に向ける目が、あの時の里人たちと同じだったからだ。
自分を憎悪し、邪魔者だと思っている顔。
肥溜めに浮かぶゴキブリを見るような目つき。

「…………うそ………だよね? 冗談だよね…………? ねえ、うそって言っておくれよ…………。ねえ…………ゆうぎ?」
「萃香。あんた自分が嫌われ者だったって自覚あるかい?」

勇儀はどこまでも面倒くさそうに言った。
ぼりぼりと頭をかき、投げつけるように言葉を吐く。

「地底に居たときもさ、自分勝手に宴会起こしてみんなに迷惑かけたよな? それだけじゃない。酔った勢いで家をぶち壊したこともあった。恋人が死んで落ち込んでいる人にも無神経に酒を呑ませようとするしさ。あんた本当に何考えてんだい」
「え……え………え?」
「あげく禁を破って地上に出るわ。地上じゃ地上で騒ぎまくるわ。…………はあ。頭痛くなってきた」

萃香は勇儀の言っていることがわからなかった。
確かに萃香は宴会好きでよく宴会を開いていた。
その際に、色んな人に楽しんでもらおうと能力を使って人々を宴会に招き寄せてもいたのも事実だ。
だが、みんなが自分をそんな目で見ていたなんて知らなかった。

「約束も破るしさ、自分勝手に動いて事態をかき回すわ、余計こじらせるわ」
「あ……ぁ………」

「あんたと一緒に居て楽しい奴なんていないんじゃない?」
「ぅ……そ…………だ」

「その姿だってどうせ人間にちょっかい出してボコボコにされたんだろ? 自業自得さ。もう面倒見切れないよ」
「…………っそだ」

「ま、殺さないでおいてあげるよ。一応、長い付き合いだし。でも二度と地底には帰ってくるなよ? 来たらフクロにするよ。まあ、その姿じゃ誰かわかんないかもしれないけどねえ」
「…………うそだ…うそだうそだうそだうそだ…………うそだ!!」

「じゃあな萃香。せいぜい野たれ死なないように注意しな。気が向いたら会いに来てあげるよ」

 

 

 

「うそだああああ!! うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 

 

 

萃香の心の中。
萃香の全てを支えていたピースは、

粉々に砕かれた。

 

 

 

 

 

 

◆     ◆     ◆

 

 

妖怪の山のとある洞窟。
その中には一人の妖怪が住んでいる。
全身が爛れたように醜く歪み、両足はなく、頭には折れた角が生えている。
その妖怪は常に壊れたような笑みを浮かべ、きひひひひ、と異様な声を上げている。
誰かが洞窟の中に入ってきたら、残った両腕で這いずり寄ってくる。
まるで何かを求めるように手を伸ばしてくるのだ。
その妖怪が何を欲しがっているかはわからない。
ただその異形の姿を見たものはみな恐れ逃げ出した。

恐れ知らずの巫女や魔法使いは、その姿を見て顔をしかめ、蹴り飛ばした。

気まぐれな吸血鬼は醜悪な外見を罵り、優越感にひたった。

ハラペコな亡霊姫は食べる気にならないと去っていった。

幻想郷のブン屋はその妖怪を珍獣と題して新聞に載せた。

世話好きな僧侶はその妖怪に慈悲を与えたが、やがては忙しい日々にその存在を埋められていった。

 

鬼は遂に来なかった。

 

妖怪は一人だ。
たった一人、洞窟の中にいる。
その名を呼ぶ者は誰もいない。

 

どこかで人の声がする。

鬼は外。福は内。

鬼は外。福は内

どこかで人の声がする。



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