ぶらっくまんた

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『星空の魔理沙』


海はひろいな
大きいな
月がのぼるし
日がしずむ


縁側でスイカをかじっていた魔理沙は足をぶらせながら、横に座る祖母を見た。
「ばあちゃん、海ってなに?」
「ん? ああ、そうだね。ここには海がなかったね」
歌をいったん止めて、祖母は海原の感触を思い出したように左手の甲をさすった。
「海っていうのはね、とってもいっぱい水がたまっているところよ」
「ふーん。あの池くらい?」
鯉の泳ぐ池を指さす魔理沙。
祖母は答える。
「ううん。もっと大きいわよ」
「じゃあ、ぼた池くらい?」
ぼた池とは里の傍に作られているため池だ。
祖母は答える。
「ううん。もっともっと大きいわよ」
「じゃあ湖くらいだね」
幻想郷最大の水源である霧の湖を持ち出した魔理沙は、これで話はついたとばかりにスイカを再びかじりだす。
そんな魔理沙に祖母は子供のようにいたずらっぽく笑んだ。
「霧の湖よりも、ううん、この幻想郷よりももっともっと大きいのよ」
スイカを持った手を膝に落とし、バカみたいに口を開く魔理沙。
しかしこの小娘、生意気にも祖母の言葉に矛盾を感じた。
「うそだ」
「うそじゃないわよ」
「だって幻想郷より広いものがあるわけないもん!」
自信満々に魔理沙が言う。それはそうだ。世界よりも大きなものなどあるはずがない。祖母は言葉巧みに自分をからかっているのだ。魔理沙はそう思った。
祖母はくすりと笑み、空を行く青空と雲を眺める。
「そうね。ここは良い場所」
突然の会話が変わり、魔理沙は首をかしげる。スイカの汁が地面に落ちて消えた。
「魔理沙は幻想郷好き?」
質問の意味を捉えきれず、魔理沙は無言で押し黙る。
「私はここが好き。ここの人たちはみな親切だし、ここには争いもない。恋をした場所でもあるし。でも……」
魔理沙の髪を撫で上げて、祖母は言う。
「海だけがないわ。それが少しだけ残念」
ちっとも残念っぽくない顔で祖母は立ち上がり、猫よりも遅い足取りで庭へと出る。そして桶の水を軽く巻き始めた。
「海で食べるスイカはとても美味しかったのよ」
「……………」
祖母の言葉とスイカを一緒に租借した。
がりっ。奥歯に違和感を覚えて眉を潜める。
「ぺっ!」
欠けた種が放物線を描いて宙を舞った。

☆☆☆


アリス・マーガトロイドが処刑されるのは明朝ということになった。逮捕からわずか14時間後のことである。略式審問は速やかに行われ、両手をハンマーで潰した時点でアリスから犯罪を認める旨の言葉が聞かれたために刑は確定した。
その日も、幻想郷の空は晴れ渡っていた。
刑が執行される河原の側には多くの者が集まり、芋を洗うかのような混雑状態となった。めっきり娯楽の少なくなった昨今の幻想郷ではこの処刑も一種のショーとして受け入れられている。人間の前に大っぴらに姿を現してはいないが、妖怪も見学に来ているはずだ。
まず死刑囚を入れる籠が到着し、腕に三つほどの注射痕を浮かべたアリスが半ば眠っているかのような表情で現れた。自力で歩くこともままならないのか、逃げ出さないための処置なのか両脇を屈強な男に掴まれ磔台へと歩かされる。地面に引きずった靴跡を残していたアリスだが、いざ竹組みの磔台の昇らされる段階になって気が狂ったかのように叫び出した。昨晩の内に喉を潰したのか、その声は枯れ木のようなありさまであった。男たちは叫ぶアリスを岩のような拳で強打した。観客がエサをもらったサルのように沸いた。
鼻の潰れたアリスが磔台に縛られる。その足元に大量の薪が積まれる。周囲に立つのは巨大な団扇を持った少女たちが立った。
「……来た」
誰かがつぶやいた。
女たちに担がれ、一台の神輿が磔台の前へとやって来る。その神輿に座るのは木乃伊と見紛うばかりの老婆だ。皺が何重にも重なった皮膚とカラカラの唇に紅白の巫女姿はびっくりするほど似合ってはいなかったが、それを指摘する者などは誰もいなかった。
博麗霊夢。かつての博麗の巫女にして伝説の退治屋。
今では現役を退いているとはいえ、彼女が幻想郷を牛耳る闇の首領であることを知らぬ者はいないし、彼女の伝説の数々を聞かずに育った者など妖怪を除けばほとんど居ない。赤い霧の死闘、沈まぬ月事変、夜霧の鬼退治。さらに言えば幻想郷を空へと飛ばしたのも彼女だという。もはや霊夢という存在は幻想郷の住人にとって神にも等しくなっていた。
「霊夢……!」
かすれ声を上げた瞬間、アリスは霊夢の傍に立っていた巫女に殴りつけられた。
「貴様! 御巫に向かい無礼な!」
アリスは何度も何度も殴られ、やがては声も出せなかくなった。そこでようやく霊夢は片手を上げた。巫女はぴたりと腕を止める。そしてぼそぼそと囁く霊夢の言葉を傾聴した。
「この者、アリス・マーガトロイドは禁忌を犯した! よってここに処刑を執行する!」
巫女は霊夢の言葉をそのまま伝えた。
「我々はどこから生まれどこに向かうのか、その答えを我らは知っている。外世界、この幻想郷はこの上に立ち存在している。これは違えようのない事実である。それを」
巫女は磔台を仰ぐように両手を振り上げる。
「この者はそれを否定した。あろうことか自分は世界の果てから生まれここにやって来たと言うのだ。そんなことはあるはずがない! 生まれた時からこの地は空にある! このような世迷言を吹聴し、世界を混乱させた異端者! 知っての通り、巫女は秩序を順守する! 今後の憂いを断つためにもここにアリス・マーガトロイドの処刑を執行する」
「っ!」
血が滲むほど歯を食いしばりアリスは叫ぶ。
「ふざけないで! 私はただ帰りたかっただけ! 何が楽園よ! 何が幻想郷よ! 地獄以下の籠檻! 私は、私は!」
瞬間、霊夢の杖がアリスの腹に強かに打ち込まれた。驚きに目を見張る巫女。アリスは血を吐いて言葉を亡くした。
「全ては戯言よ」
誰にも聞こえないほどの声で霊夢はつぶやいた。
観衆が「お慈悲を!」「お慈悲を!」と連呼する。ここで言う慈悲とは生きたまま殺すのはあまりにも残酷であり、先に絞首刑などによって処刑しその後火炙りにするべきだという主張である。だが霊夢が今まで慈悲をかけたことなど一度としてない。観客たちはあえてそれを知りながら「お慈悲を」と叫ぶのだ。言ってしまえば、これは舞台に対する合いの手と何ら変わらない。大方の予想通り霊夢は観客の涙ながらの訴えを却下する。
「慈悲を与えることは許さない。罪人は例外なく地獄の炎にくべるべし」
巫女の言葉を合図に風下から火が点けられた。
アリスが絶叫した。
団扇が煽がれるたび「おー! おー!」と、とても少女が出すとは思えない獣の叫びが響く。やがて炎は衣服を焼き、アリスの裸体が観衆に晒された。妖怪故のものか、努力の賜物か炎の中でつんと張る乳房に観客から色めいた声が上がる。
やがてアリスは死んだ。
身体の半身は赤く焼け焦げ、くすぶった火の子を飛ばしている。金の髪は短髪パーマへと早変わり。唇と瞼が焼け落ちたために最期の表情は歯を食いしばり怒りの声を上げているようだった。死体はこれから三日間の間、野ざらしにされる。そして家庭用生ごみと仲良く山の中に打ち捨てられるのだ。
「やあ、なかなか見応えあったな」
「ああ。しかしあんな与太話を信じる奴なんかいるのか? もし居たら確実にこれだよなあ」
一人の男が頭の上でくるくると指を回して見せると、どっと笑いが起こった。
「ま、今日も巫女様のおかげで人々を惑わす妖怪が退治されたんだ。それでいいじゃねえか」
「でもまだ居るんだよなあ。ったく、性質の悪い」
「霧雨魔理沙だっけな。魔女なんてさっさと皆殺しにしちまえばいいのに」

☆☆☆


取り引きは魔法の森と妖怪の山の合間で行う。
妖怪の山はいくつもの勢力が入り混じる微妙な場所だ。山に本拠を持つ守矢教団、古来より山に住んでいた妖怪天狗と河童、さらには地底から帰ってきた一部の妖怪たちも山に住み始めた今、妖怪の山は魔女の鍋さながらの混沌に満ちている。それも魔法の森との境となるとそれは不可侵地帯とも無差別攻撃地帯ともなりうる。だがそれだけに後ろめたいやり取りをするには最適な場所と言えた。そこで森近霖之助は大きなカバンを足元に置き、胸元の懐中時計を見つめていた。
現在、午前一時三十四分。
空には相変わらず青い地天に白い雲が渦巻いていた。
「遅いぞ」
懐中時計の蓋を閉め、霖之助はヒビの入ったメガネの位置を直す。
「そっちが早く着すぎたんだぜ。それにレディを待つのは男の役目だろ」
「言うようになったじゃないか魔理沙。しかしもうレディなんて年じゃないだろう?」
「心は今でも少女だぜ?」
ふんとおかしそうに鼻を鳴らすと、霖之助はカバンをつま先でつつく。
「ご注文の品はここに揃えた」
「ああ、ありがとよ」
魔理沙は霖之助の胸に茶袋を押し付ける。霖之助は袋を開けて中身を改めた。薄汚れた銅銭の束からは香水と血の匂いがした。
「確かに」
「んじゃ、貰ってくよ。しかし大変だよなあ。商売あがったりだろ?」
カバンを左手で持ち上げる魔理沙。その時、ほんの一瞬だけ顔を歪めたのを霖之助は見逃さなかった。
「まあね。少し前なら外の世界からの流入もあったんだが、それもほとんどは。今じゃ墓荒らしみたいなもんさ」
「それでも辞める気はないのか?」
「それじゃあ君が困るだろ」
「へ。自分の身を心配しろっての」
魔理沙は帽子をかぶり直し、背後を向いた。
「魔理沙」
「あ、なんだよ?」
「アリスが処刑された」
魔理沙の足が止まった。
「今朝方のことだ。まだ知らなかったか」
「見せしめってか」
「警告とも言うな。もうなりふり構わずだ。確かにアリスが魔界への離脱を模索していたとは知っていたが」
霖之助は人差し指でメガネのズレを直す。
魔理沙は肩をすくめ、口元にうっすらと笑みを浮かべてみせる。
「ま、いいじゃねえか。アリスとはここ十年は連絡を取っていない。私たちがアリスから芋ズルにされることはないぜ。それにこうも考えられる。連中は私たちの足取りを掴めていない。だからこのくらいの見せしめしかできない。本当に私たちの動きを察知しているなら問答無用に殺しにくるだろうからな」
「……変わったな君も」
「自覚はあるさ」
魔理沙は振り返る。金の髪を揺らし、かつてと変わらない笑みを見せて。
「今の私は正真正銘の人でなしなんだぜ?」


八雲紫の幻想郷閉鎖政策が始まり、百年が経とうとしていた。
博霊大結界はより強度を増し、力を失った妖怪を受け入れるという当初の目的は形骸化、物理的概念的に外の世界との遮断のみにその力を生かすようになっていた。これにより幻想郷の出入りはもとより漂流物の流入まで厳しい監視の目が届くようになり、結界のほころびから流れ着くわずかな外の世界の物品も幻想郷では滅多に手に入らなくなっていた。
この政策について八雲紫はほとんど説明をしなかった。だが、おりしも守矢神社や命蓮寺といった新参勢力の流入により幻想郷の人口密度が過剰となった時期であったため〈人口増加をひとまずストップさせ幻想郷の拡張を図る。その後に再び結界を緩めて受け入れを再開する〉というのが紫の想定しているプランなのではないかという予想が意見の大半を占めた。だが一年以上が経っても幻想郷の拡張はされず、結界はベルリンの壁のように外の世界と幻想郷を隔絶し続けていた。
それどころか一年経ったある日、紫は天地をひっくり返すような行動に出る。
歴史を知る者たちからは〈大昇天〉と呼ばれる事件だ。
その日、幻想郷は空へと飛んだ。大地を離れ、宙へと舞い、やがて月と大地との間に留まった。暗黒が支配する星々の世界へと幻想郷はやって来た。
それから百年。
幻想郷の中で人は生まれ、子を育て、そして死んでいった。
そのうちに人々の中からかつての世界は失われ、遥か天空に見える地平と月は信仰の対象となっていった。
人も妖怪もこの生活を受け入れて行った。
ただ少し、星が近くなっただけ。
ただ少し、外の世界が遠くなっただけ。
妖怪は人を襲い、退治屋がそれを退治する。幻想郷の日々は何も変わってはいない。
だがやはりいるのだ。
世界の果てを目指そうなどという大馬鹿者は。

☆☆☆


薄暗い洞窟は天井からわずかに星の光が差し込んでいる。しかしそれ以外には何もない。延々と続く暗黒があるだけだ。
人々が暮らす地表を上とするなら、ここはその真逆、幻想郷の下だ。どうやら紫は幻想郷を球体状にくり抜いたらしく、幻想郷の下部はごつごつとした地面がそのままくっついている。かつての地底界のなごりなのか、そこには無数の洞窟が存在している。だがもちろんそんな所に足を運ぶ者など皆無だった。毒ガスが溜まっている箇所もあるし、気が狂った妖怪がどこに居るとも知れない。さらに星々の欠片がこちらに目がけて落ちてくることもあるという。それに地上には清らかな水と空気があるのだ。好き好んで汚れた地下に住もうなどという輩はそれこそ地虫かモグラくらいだ。
そんな地下に魔理沙たちの本拠はある。
「魔理沙。レンチ取って」
「あいよ。サイズは?」
「んー。とりあえず11-13で」
にとりに言われ、工具箱から手のひらサイズのレンチを取り出す。にとりは右腕でおっくうそうにそれを受け取る。魔理沙はにとりの左に居るのだから左手を伸ばせばいいのだろうが、にとりの左手は五年前に潰れていた。外の世界を知った者、知ろうとする者、それらを博麗の巫女は異端者と断じ例外なく狩り立てていた。にとりが左腕一本で難を逃れたのは幸運というしかなかった。苛立つような金属音が断続的に聞こえ、ローラー音と共に特製の台車に乗ったにとりが機体から顔を出した。
「あーもう! ボルトが合わなきゃまとまるもんもまとまらないよ!」
つなぎの袖を脱ぎながらにとりはがしがしと頭をかきむしる。
ホコリでぼさぼさになった髪をはたきながら、魔理沙は傍に積んだ材木の上に座る。
「厳しいか?」
「結局つぎはぎだからね。無理矢理繋げないことはないけど、そうすると耐久性と密閉性がさ。何とかするけどね」
「とにかくちょっと休もうぜ。昼時だ」
「ああもうそんな時間? 今日の具はなに?」
「魔理沙特性、梅握りの梅抜きだぜ」
「それは具無しって言うんだよ」
げんこつのようなおにぎりにかぶりつき、口に広がるしょっぱさを冷めたお茶で癒していく。空気の悪い洞窟内だがお尋ね者の分際で日の下で飯は食えない。
「やっぱり材料不足かー。うーん」
「せめて燃料だけでもまとまった量が見つかればいいんだけど。まだ機体の方はどうにかできそうだけど、こればっかりはね」
ぐいと湯呑をあおり、にとりは空を見上げる。
「幻想郷はさ」
「うん」
「確かに、あそこにあったんだよね」
「何をいまさら」
魔理沙の呆れた声を聞いて、にとりは照れたように顔のパーツを中心に集めた。
「そうだよね」
大地を掴むようににとりは空に手を伸ばす。こうしてみれば地球は手のひらに隠れてしまいそうだ。
「一回転するのに約23時間56分4.06秒。時速にすると中心線で1700キロメートル。その地表面から大よそ4000キロメートル上空にここはある。幻想郷が存在した地点の直上にぴたりと存在するから四季もあれば昼夜もほぼ一致している」
そこまで言って、にとりはポリポリと耳をかく。
「少し前まで大地が丸いことすら知らなかった。世界ってのはどこまでも海が続いていて、そして――」
「果ては滝になって消えているのか?」
「かもね。でも違った」
手をどかす。青い大地は白い雲に取り巻かれながら、確かにそこにある。
魔理沙がポリポリと髪をかく。
「アリスがさ。死んだってさ」
にとりは無言だった。
「バカだよな。今更魔界に帰ろうなんてさ。私と違ってうまくやってると思ってたのに。一瞬の気の迷いでパーだぜ」
あははは。魔理沙は笑う
「本当、バカだよあいつは。家にこもって人形ばっか作ってたくせによ。百年越しのホームシックかってんだ」
「魔理沙」
振り返った魔理沙の唇に、にとりは強引にキスをした。舌を通してにとりの少し甘い味が口に広がる。
「わるい。そういうつもりじゃなかったんだけど」
「嘘つかないでよ。もうどれだけの付き合いだと思ってるのさ」
「……そっか」
にとりは着やせするタイプだと知ったのは何十年前のことだったろうか。にとりがつなぎを脱ぎ去ると、汗にぴたりと張り付いたシャツが露わになった。
「ちょっと汗臭いかもしれないけど、今日は魔理沙の好きにしていいよ。それとも洗った方が良い?」
魔理沙はにとりの胸に顔を埋め、額を押し付ける。柔らかな乳房の感触、頬に感じる鼓動、髪にかかるにとりの吐息。
ああ、と魔理沙は息を漏らす。
生きている。にとりは生きている。そして自分も。
「にとり、まだ言ってなかったけどさ」
「うん?」
「……私、汗臭い方が好みなんだぜ」
にとりは魔理沙の髪を撫で上げて言った。
「ずっと前から知ってるよ」

☆☆☆


「台固定よろし! 角度よろし! 噴射剤よろし! 発射コースに障害物なし!」
全てのチェックを終えて、魔理沙はにとりの待つバリケードへと走り戻る。ぐっと親指を上げる魔理沙ににとりも親指で返す。
「第五千三百二十九回発射実験開始!」
にとりが手元のボタンを押す。小型ロケットは白い煙を立ち上げて身震いを始める。やがてそれは目つぶしのような光へと変わり、ロケットは弾幕を遥かに超える速度で空へと昇って行った。
「行け!」
魔理沙は写真機を取り出し、連射モードでロケットを撮影する。にとりは双眼鏡でロケットを追いながら、目覚まし時計を改造したストップウォッチで発射からの時間を記録する。
「あと3、2、1……ここ!」
にとりの言葉に合わせたように、ロケットは何かに引っかかったように身をよじる。ここでロケットに一つの変化が現れる。その先端がドロドロに溶け始めたのだ。やがてそれを潤滑油にしたようにロケットはじりじりと空を昇り、そしてある一点を超えると一気に加速した。
「よし! 計算通り!」
「撤収だぜ! ぼやぼやしてるとおっかねえ連中が来るぜ!」
「OKだよ!」
機材を抱え魔理沙たちは逃げ出した。
この逃走も五千三百二十九回目、実に堂に入った逃げっぷりだった。


石の上にも三年というが、魔理沙たちは百年かけて天空の地上を目指して試行錯誤を重ねている。なるほど百年ともなればそれなりの成果を上げており、恐らくはこの世界で最も地上に近い距離感を持つ者たちとなった。
問題は三つ。結界、距離、そして突入角度だ。
まず結界。改修された博麗大結界と幻と現実の結界。それにこの幻想郷を宙に浮かせ続けるための防護膜としての結界の三つが今の幻想郷に存在している。これらは一つ一つが強力な力場として作用し、内から外の動きも外から内の動きも制限している。物理的精神的概念的な防壁であるこれらを突破するのは並大抵のことではない。魔理沙とにとりは最初の二十年をこの結界の観測と突破に費やしてしまった。その二十年の労苦の結晶が先ほどのロケットの先端にも使った特殊な樹脂だ。外の世界の合成樹脂と魔理沙たちの血肉を押し固めたそれは幻想郷と外の世界の概念を混ぜこぜにし結界を突破する。だが物理的な壁でもある以上、それを超えるには十分な強度もいる。その二つの要素を合わせるのに一番時間がかかってしまった。

次に距離。なにせ4000キロメートルだ。そんな距離を飛ぶのはさぞかし大変だ、と当初のにとりも頭を悩ませた。だが実際はそうでもなかった。結界を超えたらロケットはびっくりするくらい遠くまで飛んで行ったのだ。これについてにとりはある仮説を立てた。事実として自分たちは早く飛べば飛ぶほど強く風を受ける。当たり前のことだ。ではこの風の正体はなんなのか。これは風ではなく水を例にすれば理解できた。水の中を泳ごうとすると適した泳ぎ方がある。できるだけ水に逆らわないよう先端を鋭くするのだ。つまり水の流れを邪魔しないようにする。これは風でも同じなのではないかとにとりは考える。つまりは目に見えないほどの小さなチリだとかゴミだとかそういうものが実は存在していているのではないかということだ。それは遅いうちは大して影響力はないが早くなると体にぶつかり風となるのではないか。このチリの動きこそが風の正体なのではないか。そしてこの黒い空にはそのチリが何一つ存在しないではないだろうか。にとりは実験を繰り返した。金を握らせ、風を操る友人に何度も協力を仰いだ。結果仮説は正しいと証明することができた。ここまでに十年の歳月をかけた。だが、このことがさらに問題を生んだ。風の無い状態での速度を加味しても計算が合わないのだ。この問題を解くにはさらに十年、魔理沙がおにぎりを落としたことによって、地面には物を引き付ける力があることに気づくまでかかってしまった。魔理沙はこれを引き付ける力。引力と名付けた。これは朗報でもあった。幻想郷の引力さえ抜ければ地表の引力に引っ張ってもらえるのだ。これは燃料の量をぐっと減らせることに等しい。魔理沙とにとりは小躍りして喜んだ。人を乗せて飛ばすのならば機体の重さはできるだけ軽くしなければならないのだから。

そして最後の問題、突入角度。予想すべき問題ではあった。にとりが自信を持って空に飛ばしたロケットは確かに地表を目指して飛んで行った。推力も十分。これであの実験機は地表のどこかへと届いたはず、だった。しかし実際には違った。ロケットは燃えた。天空に住まう龍神に息を吐きかけられたのかと思った。だがそれでは困るのだ。地表に向かって飛んでみたけど、龍神様に炎を吐きかけられて燃えてしまいました。そんなことではダメだ。にとりは必死に理由を考えた。何度も何度も飛ばしてもロケットが燃えてしまう理由を。自分は龍神に嫌われることをしただろうかと半ば自暴自棄になったりもした。そのたびに魔理沙に慰められた。摩擦、という言葉ににとりが辿り着けるまでにさらに時間を要してしまった。そしてこれがとてつもない問題であることにも気づいた。地表には空気がある。それは風の壁となり突入した物を襲う。途轍もない速度で突入した物は風の壁によって熱を帯び、燃えてしまう。それを避けるにはじっくりと緩やかな速度で地表を目指さなければならない。それには角度が問題となる。角度が深すぎれば速度は上がりあっという間に燃えてしまう。緩やかなカーブを描くようにじっくりと。この問題を解くために二十年かけた。さらに自転や公転を加味しての計算に二十年かかった。
そしてさらに二十年。魔理沙とにとりは全てを兼ね備えたロケットの作成に心血を注いだ。都合百年、その時間と努力が今、実を結ぼうとしていた。

☆☆☆


おもちゃのネジを巻くように、右手にはめられた器具のネジが閉められた。
指潰し器には難しい技巧など一切ない。ネジと板さえあれば簡単に作れる。しかし棘の生えた鉄板は指に食い付き、さらにネジを閉めれば関節は破壊され、最終的に指は潰れてしまう。何よりも優れているのは極めて強い苦痛を与えるにも関わらず、対象の生命維持にはほとんど影響を及ぼさない点だ。簡単に作れて、高い効果を上げ、なおかつ対象を殺さない。まさにコストパフォーマンスに優れた素晴らしい拷問手段だと言えるだろう。
そこから先をにとりは考えることができなくなった。
「ぎっっ! ぎぅぅぅ」
情けない声を上げてうずくまろうとするにとり。だが手足を拘束する革紐がそれを許さない。にとりは今、両腕を机の上に固定されて無理矢理立たされている。机の足はにとりが背伸びしなければならない高さに調整されている。もしも力を抜いてしまえば全体重が両手にかかり腕が抜けてしまうだろう。
「霧雨魔理沙はどこだ」
麻袋かぶった拷問官が問う。にとりは脂汗の浮かぶ顔で精いっぱいの笑みを浮かべる。
「知らないね」
瞬間、背後に居た男に股間を思い切り蹴り上げられた。脳髄まで届く激痛。さらに足の力が抜けたことにより身体が落ちる。蹴り上げた時の衝撃かその後の脱力のためか、棘を突き立てられた指の肉が数センチ削げていた。
「霧雨魔理沙はどこだ」
「がっ、はあ!」
足腰を痙攣させるにとりには言葉を話す余裕すらない。だがそんなことはお構いなしに拷問官は巨大なハサミを取り出した。目の前でハサミが開けては閉じられ乾いた金属音を鳴らす。
「どこだ」
獲物に食らいつくヘビのようにハサミが躍る。にとりが逃れようと身をよじればよじるほど顔全体を切り裂いて行く。さらにぐいとツインテールの青い髪を掴まれた。その意味を察しにとりは顔を引きつらせる。
抵抗などできるはずがない。
男たちが置いた大きな鏡の中にはすっかり不揃いのハゲ山と化した頭と顔中を切り裂かれた自分が居た
「ぐっ! ぐぅぅ!!」
悔し涙を流すにとり。だがその口が開かれないならば仕方がない。針の山、焼き鏝、自白剤、もろもろの拷問道具が運び込まれてくる。男がその中からペンチを取り出す。さて爪にするか歯にするかと品定めをしていると、男の腰がとんとんと叩かれた。
「話をする。血を止めろ」
「っ!」
いつの間に立っていたのか、背後に居た老婆に男たちは震えあがった。
「……霊夢」
「げほっ」
タンの詰まった咳を霊夢はした。


手足は拘束され、傷は炎で止血された。その横に椅子を置かせると、心配を続ける連中を一睨みによって退散させた。その様を眺めながらにとりは力なく笑う。
「……変わっちゃったね霊夢」
「さあ。変わったのは世界の方かもよ」
枯れ木のような手で霊夢は小さな札をペタリとにとりの背に張る。それはまるで焼けた鉄のようににとりの背を焼き始めた。
「が、ぎぎぎぎぎっ!」
「百年間。あんたたちはバカな時間を費やしてきた。おかげでおちおち死んでも居られないわ」
「かっは……! あああああ!」
見開き過ぎた瞼から目玉が半球状に浮き上がる。そしてにとりが小便を漏らしたところでようやく霊夢は札を剥いだ。
「死ぬのは怖いでしょう」
にとりは答えない。霊夢は独り言のように続ける。
「私はもうすぐ死ぬ」
「……………」
「まあ人間としては長生きしたしね。だけどその前に憂いは無くしておきたいの」
よっこいしょとババア臭い声を上げて霊夢は椅子に座る。ただそれだけの動作で軽く息が上がっているようだ。
「……あんたらの夢なんて一つも叶わないわよ」
少し間を開けて、にとりは聞いた。
「魔理沙も捕まるって言いたいのかい?」
霊夢はとてもおっくうそうに首を振る。
「あんたらが地上を目指していること自体、無意味だってこと」
はー、と大きく息を吐く。
「冥途の土産に聞かせてあげる。百年前の昔話を」


ある日、外の世界の王様が破滅の引き金を引いた。
外の世界には世界を滅ぼせる武器がいくつもあり、それを王様は使ってしまったのだ。それが具体的にどんなものか霊夢は最後まで知らなかったが、ダイナマイトの何百何千何万倍の威力を持つ爆弾で、それは爆発した後も毒を撒き散らし何百年も一切の生物の存在を拒絶するものだと聞いた。そんな兵器をなぜ作ったのかは知らない。ただ外の世界ではいくつもの国が戦争をしていて、その過程で相手を殺すために生まれた物だと紫は言っていた。そして一人がそれを手にした以上、他の者も同じ物を求めた。当たり前だ。同威力の武器を持たねば一方的にやられるだけだ。相手よりも強く、相手よりも多く。そんなことを繰り返していたら、いつの間にか外の世界には世界を滅ぼせるほどの武器ができてしまったらしい。
そしてある日、そのスイッチを誰かが押した。
きっかけは知らない。
憎い敵対国を滅ぼそうとしたのかもしれない。高度な政治的判断という奴だったかもしれない。虐殺に走りたかったのかもしれない。もしかしたら誰も使おうなんて思っていなくて、たまたま偶然使ってしまっただけなのかもしれない。
とにかく、外の世界は滅んだ。
紫はすぐさま動いた。結界を強化し、外の世界からの影響を遮断した。だが一月、半年、一年と経つうちにそれだけでは収まらないと気付いた。
人間の叡智という奴はもはや妖怪の手にすら負えなかった。外の世界どころではない地獄、天界、地底界。死の毒は概念を超えて人外の世界すら浸食した。地上の穢れに気づいた月の民は早々に月を捨て、どこか遠くの星へと旅立ったという。迷っている時間はなかった。紫はその力を振り絞り幻想郷を飛ばした。同時に外の世界のことを忘れさせるように仕向けた。外の世界などない。あんなものは見なくていい。あんな世界は――
紫は最後まで言っていた。
毒に犯され失敗した豚の丸焼きみたいな姿になりながらも最後まで幻想郷のことを思って、その思いを霊夢に託した。
外の世界のことなんて忘れなさい。ここは、ここだけは楽園。幻想郷は最後の楽園だから。


「……外の世界になんか行かせないわよ」
げほっと重苦しい咳をつき、霊夢は杖を突き立ちあがる。
「もしもあんたたちが外の世界に行ってしまえば、それを見た誰かが同じことを思うかもしれない。もしかしたらあそこには何か素晴らしい世界が待っているんじゃないか。あそこに行けばもっと良い暮らしができるんじゃないか。そんなことは」
霊夢がよろめいた。思わず机に寄り掛かる。黄色く濁った眼には本当ににとりが見えているかも怪しい。
「幻想郷はこの博麗霊夢が守る」
荒く息をつく霊夢。そこで初めてにとりは霊夢の顔をまじまじと見た。老衰しきり髪にはかつての艶やかな黒が一本も残っていない。深く刻まれた皺がその一つ一つが呪詛のよう。にとりよりももっともっと小さい身体は、何年も食事がのどを通っていないように痩せっぽっちだった。
幻想郷という重圧によってすり潰された少女がそこにいた。
ふいににとりはくすくすと身を震わせ笑い始めた。怪訝に薄い寄せる霊夢。
「ごめんよ。霊夢を笑ったわけじゃなくてさ。思い出し笑い」
その言葉を聞き、余計に霊夢は混乱した。
思い出し笑い?
なぜこんな時にそんなことができるのだ。
にとりは今すぐにでも死ぬかもしれないというのに、夢もロケットも丸ごと葬られたというのに。
「いやさあ。魔理沙に聞いたんだ。妖怪になってまで、どうしてそんなに地上に行きたいの、って。そしたらさ、魔理沙の奴なんて言ったと思う?」
口をすぼめる霊夢ににとりは満面の笑みを浮かべた。
「海に行って最高にうまいスイカを食べたいから、だって!」
その時、天地が揺れた。
「――きゅう、はち、なな」
ずいぶん耳も遠くなったせいか、にとりが口ずさむそれがカウントダウンであることに気づくのが遅れた。
「何を数えている?」
「ろく、ご、よん」
ぞわりと不吉な予感が霊夢の中を走った。
なぜにとりはここに居る?
私たちが捕まえたからだ。
にとりの居場所を何者かが密告したおかげで、アジトを急襲、捕獲することができた。その時、アジトに残されていたロケットも完全に破壊した。
だが、もしもそれが全て仕組まれていたことだったら?
残った魔理沙を探して人員は待ち伏せと尋問に割いている。その分、周辺警戒は疎かになるのは自明だ。そもそも居場所を密告したのは誰だ。百年間逃げ回ったにとりが捕まるにはずいぶんとあっさりしすぎではなかっただろうか。ロケットが一つしかないと誰が決めた。
「この手じゃ、二回目は無理そうだ」
ひしゃげた右手を眺めて、にとりは苦笑いをする。
「貴様っ」
「行け魔理沙。最後のチャンスだよ」
「貴様ァ!!」
にとりの身体を目がけ、無数の札を霊夢は投げた。その一つ一つが妖怪には致命的な霊術が込められている。だがもうにとりの瞳には札も霊夢も映ってはいなかった。部屋を震わす振動を全身で感じながら、空へと旅立つ友を思う。
「にー! いち! リフトオフ!!」
妖怪の山が、輝いた。


それは流れ星が空へと帰るかのような光景だった。
青白い光を放ちながら、魔理沙を乗せたロケット〈きゅーかんぱ十三号〉は見事に幻想郷の空を飛んだ。
幻想郷の誰よりも速く、誰よりも強く、誰よりも高くきゅーかんぱ十三号は空を目指す。三重の結界はもはや役割を果たさなかった。先端の合成樹脂は結界をゴリゴリと削り、猛烈なせめぎあいの中で、ついに結界を突破した。
誰しもが、その光景に瞳を奪われた。
幻想郷初の、とても小さな有人ロケットは、世界を飛び出し産声を上げた。


(飛んだかい? 魔理沙?)
薄れゆく意識の中、にとりはぼやける視界に星空を行くロケットを見た。
そうだ。これが見たかったんだ。
理屈なんてない。手前勝手な夢を全部託してきた。百年の努力は実を結んだ。それがどういう結末になるか自分は見届けることができないけれど、それはほんの少しの未来に自分は進めたのだ。
霊夢の言うことも最もだと思う。結局自分たちは周りの迷惑なんか考えずに突っ走って来たのだから。
でも、だからこそ、胸を張ろうと思う。
それが魔理沙への礼儀だ。自分への意地だ。
(ああ、しまったなあ)
血を失い急激に体温が下がってゆく。暗くなってゆく視界の中で、にとりは最後のミスに苦笑する。
(スイカと一緒にきゅうりも持って行ってもらうんだった)
海で食べるきゅうりは実に美味しいのに。


光は幻想郷のほとんどの者が目撃していた。
その光にある者は絶望に嘆きの声を上げた。
ある者は驚きに腰を抜かした。
ある者は呪いを避けようと祈りの言葉を吐いた。
ある者はいつしか見た輝きに苦笑した。
ある者は少女が夢を叶えたのだと手を叩いた。
万人によって万人のやり方でその事実は受け止められた。
ただ一つ確かなのは、もはや幻想郷は以前と同じではいられなくなったということだ。

☆☆☆


狭いロケットの中で魔理沙は夢を見ていた。
かつての幻想郷のこと。幼い頃祖母に聞かされた話。何もかも全て過去のことだ。今の自分は人間ですらない。ロケットに乗って地上へ行くということのために人間を止めた妖怪だ。それについてみんなはどう思っただろうか。
「くしゅ!」
寒さに目を覚ます。星の海が非常に冷えることは予想されていた問題だったが、これは酷すぎる。
「人間じゃなくて良かったぜ。危うく氷ミカンになるところだった」
妖怪の身体に感謝し、手を合わせる。
そこでようやく気付いた。ロケットの小窓、そこに映る青に。
「うわあ」
それは宝石だった。飛び込めば掴めそうなほど広々とした世界がそこにある。


海はひろいな
大きいな
月がのぼるし
日がしずむ


なるほど、と魔理沙は納得した。
こいつは広い。広すぎる。世界はこんなにも広くて大きくて、奇麗だ。
急に怖くなった。同時に壊れるほど嬉しくなった。
「さーて、鬼が出るか蛇が出るか」
正直、足元の世界がどんなものか、まるで見当がつかない。
もしかしたらそこは清廉潔白な顔をした地獄かもしれない。
あるいは意外に人間も妖怪も仲良く暮らす天国かもしれない。
はたまた誰一人存在しない死の世界かもしれない。
しかし、これだけはわかる。


あの青の中で食べるスイカは最高にうまいだろう。


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