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『幻想異郷伝〈上〉 全文公開』


 

 

 

 

これはもう一つの幻想郷の物語

 

 

 

 

 

【序章】

太陽がゆっくりと山間に向かう頃、人間の里の大通りは夕飯の献立で悩む女たちであふれかえる。ここに畑帰りの男たちと遊び終えた子どもたちが突入してくるのだからもはや収拾は不可能に近い。
八百屋や肉屋は人の垣根ができ、押し合いへし合いの格安商品獲得の戦いが始まる。また素早く材料を手に入れられた人々はさっそく調理に入り、炊き立てご飯の甘い香りと魚の軽く焦げた匂いがそこら中から漂ってくる。それを嗅ぎつけ腹を鳴らす子どもたち。その小さな手を引き、足早に母親は家に向かう。
いつもと同じ変わらぬ夕方。
どこか遠くでほら貝の音が響く。
「おい、あれ」
数人の里人がそれに気付く。情報は波紋のように人から人へ伝わり、たちまち大通りを駆け巡る。里の北側、妖怪の山がある方向から白い霧が迫ってくる。境界の柵を越え、里外周の畑を飲み込み、それは遂に里中を包む。
「なんだこれ」
妙な息苦しさを覚え、人々は不安に辺りを見渡す。濃霧は人々の視界を遮り、わずか数メートル先も覗かせない。唯一見えるのは里中央にある高い杉の木の頂点くらいだろうか。
ぱきゃ。
ふいに細枝を折るような音が聞こえる。一人の男が倒れた。近くに居た者が側に寄る。おい、どうした。声をかけ身体を揺さぶる。すると男の側で西瓜のようなものが転がった。悪い視界の中、村人の一人が目を凝らしそれに近づく。
「な――」
言葉を失う。
人間の頭部だった。
「ひゃあああああああああああああああああああっ!!」
幾人かが叫び声を上げれば、それに感化されたように周囲にも動揺が広がる。
「なんだ!? どうしたんだ!?」
「ひ、人が死んでいるらしい!」
「ば、なんでそん――」
ざわめきは突風によって黙らされた。
人々は反射的に目を瞑り、腰を低くする。
子どもたちは母親の足にしがみつき、出店の店主は看板が飛ばされないように体全体で抱きしめる。里の中心に向かって吹いたその風は里中央に生える杉にぶつかると、方向を変えて一気に天を昇る。
「な、なんだったんだ?」
「ねえ、ここに居た人は?」
「あれ? 雨?」
ぽっと頬を伝う水の感触を拭う男。指先についたのは真っ赤な鮮血だった。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。
杉の木を中心に天から降り注ぐ血と臓物の雨。数人分のそれは杉の木を人の皮と肉で飾り付けするには十分で、里のシンボルであった緑の葉は赤に染め変えられた。
声も出せない恐怖の中、人々はその頂点に立つ人影を認める。
頭部にはねじれた木の根のような双角、鋼のような筋肉質の身体つき、麦色の髪は腰まで伸びその先端は白い霧へと同化している。
「――鬼だ」
伊吹萃香。
かつて妖怪の山を支配していた四天王の一人。双角の食人鬼は割れるような笑みを浮かべながら、犠牲者の腿肉を喰い千切る。
枝から一つの頭部が滑り落ちる。それが足元まで転がった所で、ようやく一人の女が悲鳴を上げた。
「殺した! 殺したのか!?」
「巫女だ! 巫女を呼べ!!」
右往左往する人間を一瞥し、萃香は手首の鎖を振り回す。どういう理屈か伝説に聞く如意棒の如く伸びた鎖は霧の中を駆けていた一人の女に絡みつく。一人の男が何とか鎖を外そうと組みかかる。だが何重にも巻かれた鎖はビクともしない。萃香が腕に力を込めて鎖を引く。みりみりと締まりゆく鎖に女の顔が苦痛に歪んでいく。すでに言葉を吐くのもつらいのか、はくはくと口を開閉させ青い顔で男にすがる。
「た、助け……っ!」
ばちゅ。
そんな音を立てて、女性の身体は鎖に潰された。
「ぎぁああああああああああああああああっ!!」
「――ひぃっ!」
ずりずりと這い寄り男にすがりつく女。胸と腹を半端に切り離され、その断面からは内臓が垂れ幕のように伸びている。助けを求める女の腕を男ははたき落とし、身を翻して霧の中を逃げ出した。その様を睥睨し雷鳴のように萃香は笑う。
「貴様っ!!」
きつい怒号が萃香の背中に突き刺さる。そこに居たのは人里に住む半獣、上白沢慧音だ。悲鳴に寺子屋から飛んできたのか、その指先はチョークで白く汚れている。
「おやおや、半獣の先生。こんばんは。どうだい一杯やるかい?」
頬杖をつきながら瓢箪の栓を抜く萃香。
「ッ……なんのつもりだ。説明をしてもらおう」
ツバと共に怒りを飲み込み慧音は問いかける。恐らく何か事情があると頭の隅で考えたためだろう。まさか戯れでもあるまい。何かしらの理由、例えば誰かの報復などを可能性の一部と考慮してのことだ。目の前の一事で物事を判断しないのは流石教師といえる。
しかしそれは、相手と自分との間に普遍の理屈が通じることを前提とした話だ。
ガリッ。
足の骨をかみ砕き、萃香は嗤う。
「獣が肉を食うのに理由がいるのかな?」
「なっ――」
次に慧音から飛び出したのは抗議の言葉でも、憤怒の声でもなく、腸と皮膚の一部が絡みついた萃香の指先だった。肉と爪の隙間から赤黒い鮮血がポンプのように溢れてくる。華奢な身体は流れ出す生命の欠片に堪らず膝を折る。痛みと出血で震える腕で身体を支えながら慧音は萃香を睨みつける。
「お、頑丈だね。伊達に半獣じゃないか。結構結構」
「な、何をするつもりだ? お、お前は……何を! この里に何を!!」
「教えてあげよっか? あと、お前じゃなくてお前たちだね」
霧の中に溶け込んだ萃香は、一瞬にして慧音の目の前で寝そべっている。
「殺すのさ」
息がかかるほどの距離で萃香は笑みを浮かべる。鮫のような鋭い牙がその口からは覗いていた。
「全ての人間を冒して殺して――そして喰らう。そう。妖怪跋扈した遥か昔のように」

一人の男が里から逃げる。友を押しのけ、家族を捨て、里の外へと通ずる道をひた駆ける。里を覆う垣根を越えて、土肌を蹴り続ける。途中、垣根で足を切ったがその痛みにすら気づくことはない。そして、いつの間にか背後から聞こえていた羽音にも男は気付かなかった。
「あやや。友人家族を見捨てていの一番に逃げ出すなんて。なかなか見所ありますねー。ご褒美に苦しまずに殺してあげますよ」
「――いっ!」
彼が振り向き空を見た時、獰猛な風が吹き荒れる。
一瞬にて鎌鼬と変じた風は、男の身体を等間隔で通り過ぎた。
男は走り続ける。
血液の表面張力で繋ぎとめられていた身体は、一歩進むたびにズレていき、やがて悪趣味なダルマ落しの如くボロボロと崩れ落ちた。
「ば、馬鹿な! なぜ天狗様が!?」
その光景を遠巻きに見ていた者も、男に次いで逃げ出した者も、顔を歪めて恐慌に陥った。
ウソだ。有り得ない。なぜなぜなぜ。
無数の疑問が投げかけられる。それに応えるように人間の里を包囲していた天狗たちは茂みの中からゆっくりと立ち上がる。
犬のような耳と尾を持つ白狼天狗、射命丸と同じ黒い羽を持つ鴉天狗、まるで巨人のような体躯の大天狗まで居る。
彼らの顔に浮かぶのは嗜虐的な笑み。
神として崇められた時でも、隣人として親しまれた時でもない。山に住まう殺戮者として恐れられた妖怪天狗としての顔。
「総員行動開始。一匹も逃がさないでくださいよ」
射命丸の言葉をきっかけに天狗たちは歓声を上げて里へと殺到する。
鳴り響くほら貝の音。 白狼天狗の千里眼と鴉天狗の素早さから逃れられる人間などいるはずもない。
押し寄せる妖怪の姿に、里人は久しく忘れていた感情を思い出す。
恐怖と絶望。
ああそうだ――、妖怪に対してそれ以外の感情など持ってはいけなかったのに。
太陽が沈む。
まるで里そのものの色が変わったかのように闇が人々の影を食っていく。


 

 

神社の空から里を見た。
まるで鬼ごっこをする子どものように人間を追い回す天狗たち。手に持った白刃を振り抜けば、その身体はいとも簡単に切り裂かれてしまう。花火のように散る赤い鮮血。倒れた者の中には未だに蠢いている者も居て、管のように伸びた内臓を引きずりながら切り離された半身を求めて這いずっている。
まるで出来の悪いサイレントフィルムのように現実味の無い光景。それを呆然と見ていた霊夢は、はっとしたように空を駆け出す。
「あ、あいつら! どういうつもりよ!!」
猛烈な風を浴びつつ霊夢は自らの懐を探る。対妖怪用の針は合計29本。呪符の残りは40枚ほど。他の武器は手に持った祓い棒のみ。
「くっ! ケチらず用意しとけばよかったわ!」
「全くね。普段からちゃんと準備していないから慌てることになるのよ」
「っ!?」
突如として目の前に開いた裂け目に霊夢の足は止める。
空間を押しのけその裂け目は体積を増して行き、やがては人間をすっぽり覆うほどに広っていく。そこから溢れ出したのは金の髪。場違いなほど明るい洋風の傘を片手に姿を現したのは《妖怪の賢者》八雲紫。
「やっほー霊夢」
「……なんのつもりよ紫。里の様子が見えないの」
「それがね。家の茶葉が切れちゃったの。私ってば一日三十杯はお茶を飲まないと眠れない性質だから、昨日なんて夜しか寝てないのよ。だから霊夢にご馳走になろうと思って」
「残念だけど今朝から博麗神社のお茶はセルフサービスよ。茶葉は台所のタンスの中、急須はちゃぶ台の上。飲んだ分だけ神社の賽銭が潤うという不思議システムになっているから何杯飲んだかちゃんと数えときなさいよ」
紫を避けて進もうとする霊夢。だが紫はスキマをずらし、その前へと立ちはだかる。
「んもう、欲張りね。あんまりケチだと貧乏神が来るわよ?」
「なら殴って泣かせて追い返すだけよ。もちろん身包み剥いでね」
「乱暴ねえ。とても正義の巫女さんの言う事とは思えないわよ」
「ハンムラビ法典にも書いてあるのよ。目には歯を。歯には牙を。邪魔する者には鉄槌を。巫女の道理は世界を覆すのよ!」
祓い棒が一閃。紫を目がけて振り下ろされた。
その一撃を、宙を蹴って悠々とかわす紫。
「予想の内!」
祓い棒を振り下ろす勢いのまま足で宙を捉え、三歩の距離に離れた紫めがけ右足のかかとを振り抜く霊夢。
衝撃音。
人間相手ならアバラを折るような霊夢の蹴りは、取り出された扇子によって受け止められている。
「悪企みにしても度を越えてるわよ! あんた、それがわかってんの!?」
「あら。それでいいのよ」
紫の言葉に霊夢は動きを止める。
紫はただ不敵な笑みを扇子の裏側に湛えている。
「全てはこの幻想郷のため。必要なことなのよ」
ぐいと扇子を押し出した紫に、霊夢は宙を跳ね飛び距離を取る。
姿勢を取り直し、紫を睨む。
「説明しなさい紫」
「どうせ納得しないわよ?」
「だからって、はいそうですかって引き下がると思ってんの?」
「あら。目の前で誰が死のうが関係ないんじゃないの? 貴方にとっては」
その言葉に霊夢の瞳がぎゅっと狭まる。
だがそれに気付いていないように、紫は一切の感情を出さす言葉を続ける。
「当代 の博麗の巫女、博麗霊夢。貴方の役割は何?」
「……それは」
「妖怪退治、とでも言うのかしら? 確かにそれも仕事の一つ。でもね。それはあくまで“手段”。幻想郷を維持すると言う〈目的〉のための、ね。そうでしょう?」
扇子を広げ、紫は目を細める。
金色の瞳の中に霊夢の髪だけが黒く映る。
「人里への妖怪の流入。妖怪社会への人間の進出。科学を広める神と人妖平等を唱える僧侶。外の世界は世界の隅々を洗い出し、なおも満たされずに天地の最果てを目指す。もはや月の地すら幻想ではない。人喰いが廃れ、幻想郷の中でさえ妖怪は力を失いつつある。全ては人が妖怪の恐怖を忘れてしまったから。ならば、どうすればいいか」
道化師めいた動作で紫は回る。まるで幻想郷の全てを眺め見るように。
「答えは実に簡単。その恐怖を取り戻せばいいだけのこと」
「っ!? あんたは!」
霊夢の手から放たれた弾幕を紙一重で避ける紫。余裕のその顔めがけ霊夢はさらに弾幕の針を放つ。
「もっと緩急を付けなさい。教えなかったかしら?」
高い破裂音を上げ、大玉の弾幕が紫の扇子に叩き潰される。弾幕の残滓が散る中、紫の姿が消えた。
「――っ!?」
「ほらほら。ブギーマンが来るわよ」
否。消えてはいない。まるでフラッシュを見ているかのように、刹那の時間の中で居場所を変えている。
スキマをつかった移動そして撹乱。
神に等しい力を持つ紫にしてみればほんの戯れ事に過ぎない業だが、所詮は人間の身に過ぎない霊夢からしてみれば十二分に脅威だ。予備動作一つなくスキマを駆ける紫に、左右の目が付いていかない。
右、左、上、下、そして完全に消える。
「っ!」
「お見事」
背後からの一撃を防ぐことができたのは、底冷えする直感に助けられたとしか言いようがなかった。
「博麗霊夢。貴方は博麗大結界を維持するために存在する」
「ぐっ!」
右腕で受け止めた傘は、巨岩と思うばかりの重さ。
身体能力に関して紫は並みの妖怪程度しかないと聞く。怪力無双の鬼やフラワーマスターとは比べるべくもないが、逆に言うなら並みの妖怪程度の力はあるということだ。
「貴方は本来誰の味方でもない。誰も愛さず誰も信じず誰も顧みない。それでもなお逆らうというならば」
咄嗟に張った結界。霊夢の腕と傘をわずかに隔てるそれはすでに軋みを上げている。紫は重力の利を活かし、霊夢の上側へと身体を滑らせる。ギリギリと光子が弾け、髪の先ほどずつ二人の距離は狭まっていく。金を溶かしたような深い瞳が霊夢を飲み込まんと見つめていた。
「答えなさい。貴方は何を選ぶの?」
「――――――!」
瞬間、光が爆ぜた。
「なに!?」
紫の手が離された瞬間、霊夢は身を翻して地上へと駆ける。そして大地に激突する寸前、霊夢の姿は霧のごとく何処かへと消えた。
「……結界を破裂させるなんて相変わらず器用ね。そして自らを〈空〉として身を隠す。本当、憎たらしいほど優秀だわ」
『空を飛ぶ程度の能力』。空中へと浮かぶことはもとより、霊夢はこの世界からも離脱し、宙へと至ることができる。それは誰にも触れることのできない絶対の領域へ踏み込むということに等しい。霊夢が本気で“空を飛ぶ”時、たとえ紫ですら手出しはできない。できるとすれば真に神に等しい力を持つ者だけだ。
だが、能力を駆使し空へと逃げてもいずれはこの世界に戻らねばならない。紫はゆるりと待てばいいだけのこと。霊夢の力量から逆算して完全に消えていられるのはせいぜい五分。ならば――
「紫」
紫の思案は突如響いた声によって遮られる。白い霧が宙に集まり、小さな鬼の姿を取る。
「萃香? どうしたの?」
「一応ほーこく。んー、良い話と悪い話。どっちから聞きたい?」
酒に顔を赤くしながら、萃香は世間話でもするくらいの気安さで話しかけてくる。紫はほんの少しだけ逡巡して前者を選ぶ。
「そうね。良い話から聞きましょうか」
「あーいよ。里への襲撃は完了。五十人くらい殺してきたよ」
「それは御苦労さま。それで悪い話は?」
「あー、何人かに逃げられた」
あっけらかんと言い瓢箪を口へ運ぶ萃香。紫は額に扇子の先を当て、眉間に皺を寄せた。
「どういうことかしら? 詳しく聞きたいのだけれど」
「藤原妹紅。あいつが乱入して来てさ。んで、何人かと一緒に迷いの竹林へと逃げ込まれた」
「《蓬莱人形》め。予想はしていたけれど」
藤原妹紅。不老不死の妙薬“蓬莱の薬”を飲み、不死者となった三者の一。
千年もの時の間、老いぬ身体で鍛えた肉体と術は天魔鬼神ですら一筋縄ではいかないと言われ、恐らくは人間の中でもトップクラスの実力者だろう。もっとも人間というくくりに入れて良いかは甚だ疑問だが。
「永遠亭との協定で竹林には大々的には手を出せない。あの中で戦われたら確かに厄介ね。でも、なぜ気付かれたの? 彼女に兎の耳はなかったと思うけど?」
「河童の仕業さ。あいつらがチクったらしい」
むしろ愉しげ言う萃香に紫は腕組して頭に指を当てる。
「あの子たちの人間好き好き病にも困ったものだわね。でも、それは予想できた問題ではなくて? それ以前に貴方が妹紅を対処すれば解決した問題ではないのかしら?」
「だろうね」
「ではなぜ?」
ぐいと瓢箪を煽り、萃香はアルコール臭い息を吐く。
「私の役目は里への襲撃だろ? レジスタンスへの対処は管轄外だと思うけど?」
「屁理屈ね」
「まあにー」
爛漫に笑い萃香は空中であぐらをかく。
「……はぁ。それで河童たちはどうしているの? まさか人間さんと仲良くお茶会をしている、だなんて言わないわよね?」
「あいつがやったみたいだよ」
「ああ」
〈彼女〉か、と紫は思い至る。
瓢箪から口を離し、軽く揺らす。紫色の曲線の中から軽い水音が返って来る。
「すごいね。どれだけのことをすればあんなになるんだろうね」
「それは強さについて? それとも」
「今更聞くことかい?」
萃香の言葉に一つ頷き、
「そうね」
「ほら。一杯やっとけ」
どこからか白磁のおちょこを取り出し、紫に差し出す萃香。黙ってそれを受け取った紫に萃香は酒を注ぐ。
酒の水面をしばし見つめた後、紫は里の方を見やる。
ある程度の抵抗は予想の内。当然だ。幻想郷を根本から改革しようというのだから反発の無い方がおかしい。
人間に付く妖怪も居よう、妖怪に付く人間も居よう。だが、あれだけの数が揃っていたのだ。萃香の力を借りずとも天狗本来の力なら妹紅とはいえ捕縛できたのではないか。だがそれができず、あまつさえ里の者を逃がしてしまうという体たらく。殺戮の宴に興じて大事を忘れたと断じるのは簡単だが、それ以上の不吉な予感を紫は感じていた。
――妖怪の力がそれほどまでに衰えているの?
「紫」
萃香の声に紫は顔を上げる。いつの間にか立ちあがっていた萃香は麦色の髪を風に撫でさせながら瓢箪を差し出す。
「あんまり根つめんなよ」
「誰のせいだと思ってるのよ」
苦笑し紫もおちょこを差し出す。こつんと陶器を合わせ、二人は酒を飲み干した。
おちょこを投げ捨て、口を拭う。
「妹紅の対処は私が行うわ。貴方は天狗の指揮を執りなさい」
「あいよ」
短く答えて萃香は霧と化し、夕焼けの中に霧散した。
「五十人……か」
ふいに口走り、紫は苦々しく歯を噛み締める。
「全ては幻想郷のため。そのためなら私は――」
つぶやきは一瞬、紫は人間の里へと繋げたスキマへと身を投げた。

 

◆ 

 

「まずっ!! 何よこのキノコ!? サルのゲロでも詰まってるの!?」
「霊夢下品。まあ、味には同意だけど。早苗良く食べられたわね」
「え、あ、はい。不思議と私は平気でしたね」
「そんなに不味いか? これはこれでエキゾチックな味わいがあると思うんだけどなあ。ああ、舌に感じるピリピリとした刺激」
泡をふく早苗を前に、赤紫のキノコを口へと放る魔理沙。もぐもぐと口いっぱいにキノコを頬張る姿に霊夢とアリスは顔を引きつらせる。
ここは魔法の森の中にある洞窟の一つ。
魔理沙はキノコの栽培のためにこうした洞窟をいくつもキープしているらしい。狭い上に湿気が多くあまり長居したくはない場所だが、白狼天狗の目もごまかせる入り組んだ洞窟は今打てる最善の隠れ場所だった。
「ま、ともかく無事でよかったぜ。そこら中に殺気立った妖怪が徘徊していて、もうやられちまったのかと思ってだぜ」
「じゃあ、あんたらも?」
「直接戦った訳じゃないけどね。目が血走った天狗連中がうろついていたから、慌ててここに身を隠したのよ。一緒に居た魔理沙と一緒にね」
「私は人間の里に向かう途中で天狗に出くわしたんです。もう何が何だかわからなかったですが、とにかく逃げのびて、そしたら魔理沙さんとアリスさんに出会いました」
早苗は両手首には包帯をさする。見れば身体もところどころに切り傷が入っていた。心なしか衣装もボロくなっているようだ。
「ったく、あいつらどういうつもりかしら」
そう言ってアリスはお尻の位置をずらす。どうにも湿った土肌に腰かけるのは性に合わないようで、嫌そうな顔で小刻みに場所を移している。
そんな中、話を切り出したのは魔理沙だった。
「霊夢。何か知ってるんだろ? この異変について」
不穏当な空気が身体からにじみ出てしまっていたのだろう、アリスも早苗も胡乱気な目つきで霊夢を見ている。
「……紫の話から大体予想はつくわ」
唇が鉛になったかのように、重々しく霊夢は口を開く。
「要は妖怪の復権を図りたいのよ、紫は」
「妖怪の復権ですか?」
「どういうことだぜ?」
「妖怪ってのは大体が人間に恐れられ、人間を喰らうことで己を保っているの。人が食事を取らねば弱っていくように、妖怪は人に恐れられねば力が弱まっていく。紫はそれを嫌った。それだけよ」
わざと突き放すように霊夢は言う。魔理沙はあからさまに不機嫌顔になり、早苗は顔を蒼白にし、アリスは複雑そうな様子でお尻をずらす。
「で、一番簡単で確実な方法を選んだ。人間が一番恐れること。苦痛と虐殺よ。もちろん、全員殺しては意味無いからあくまで影響の無い範囲で。後は紫次第だろうけど、人間の里を隔離施設みたくして定期的に襲うんじゃないかしら。いつまでも妖怪の恐怖を忘れないようにね」
そして、人間が完全に絶望してしまわぬようわずかな希望を残す。
妖怪を退治する者。博麗霊夢。
「――つまり、紫は人間を妖怪の家畜にしようって腹だってのか?」
「端的に言えば、そうね」
魔理沙は不機嫌な顔を隠そうともせず、早苗は悲痛に口を押さえる。
「そんな。そんなことって」
「くそっ。胸糞悪い。そんなの誰が許すかってんだぜ」
「まったくね。野蛮な考え方だわ。魔界じゃ人間の方が食べてくださいって擦り寄ってくるのに」
そう呟いたアリスに三人の視線が集まる。
「な、何よ?」
「いや、なんでアリスまで追われてんだ?」
「むしろあっち側でしょ? 一応妖怪なんだし」
「ですよね」
「え?」
きょとんとした目つきで自分を指差すアリス。今の今まで疑問にも思っていなかったらしい。
「な、何でかしらね。多分、私が賛同するとは思わなかったからじゃないかしら。私は人間にもそれなりに接していたから」
「アリス。それはハブられたって言うんだぜ」
「はぶ!?」
「まるで童話のコウモリですね」
「ああ、あったな。パチュリーの図書館で見たんだぜ」
「誰彼構わずヘラヘラしてるからそうなるのよ」
矢つぎに放たれる言葉に、アリスはたじろぐ。だがきっと視線を上げると地面を叩き、身体を乗り出した。
「してないわよ! だいたいコウモリがどれだけ苦労して生活してるかあんたたち知ってるの!? 逆さになりながら子どもにお乳やってんのよ! ただ印象が悪いってだけでいつもいつもも悪役にされて苛められる者の痛みがあんたたちにわかる!?」
わかるわけないぜ、とそっけなく魔理沙は言い早苗と霊夢は無言で顔を見合わせる。アリスはまだ何か言いたげにわなわなと肩を震わせていたが、三人の様子を見てぷいとそっぽを向く。
「何よ……誰のせいでコウモリになってるのかわかってんの」
蚊の鳴くようなアリスのつぶやき。
それが終わらぬ内に、アリスは魔理沙に抱きしめられていた。
頬にかかる金髪。息もかかりそうな距離に魔理沙の顔がある。
「ま、魔理沙!」
魔理沙の顔を見るよりも薄暗い洞窟を見るほうが百倍簡単で、全身の血液が沸騰していくような感覚に腰が抜けそうになる。
「ちょ、ちょっと二人もいるのに! で、でも魔理沙が良いなら私――」
「静かに!」
「ぶっ!!」
突き出したアリスの唇は地面に生えたコケに向けられた。魔理沙の声に反応し、霊夢と早苗も身を起こし祓い棒を構える。
「……追っ手?」
「誰かが近づいてくる。もしも敵ならいよいよヤバイな。ここは袋のネズミだぜ……って、アリス。何ふて腐れてるんだぜ?」
「べーつーにー。洞窟から出られないコウモリのもの悲しさを噛み締めている最中よ」
「ふーん?」
興味なさげに入り口へと這う魔理沙に別の意味で血を昇らせながら、アリスも魔理沙の尻を追いかけ移動する。
「上海。蓬莱。構えて」
アリスの言葉に呼応し、二体の人形が現れる。魔理沙も八卦炉を取り出し、伏せながら入り口へと狙いを定める。少人数の斥候なのか、足音はたったの三つ分だ。その事実にアリスは心の中で舌を打ち鳴らす。不意をつけば一方的に殲滅できる数。だが、それをしてしまえば後方に控えているだろう本体にみすみす居場所をばらすことになる。攻撃すべきか、見過ごすことを祈って身を隠すべきか。
「アリス」
「……っ」
ぽんと肩を叩かれ、アリスは隣の魔理沙を見る。
魔理沙はイタズラ好きの悪ガキみたく歯を見せた。
「まずは私が一発かましてやるぜ。取りこぼしはアリスの人形でやってくれ。人形で囲めば天狗の足も武器にならない。それで終いだぜ」
「……戦うんですか?」
「どの道、見つかる時間の問題だぜ。これだけの妖怪が敵になったんだ。幻想郷に居る以上逃げ場なんてないぜ」
早苗に不敵に笑んで見せる魔理沙。それに対し、アリスはふっと顔をほころばす。
「そうね! いけすかない天狗どものケツに剣を突き立ててやるわ!」
「おうその意気だぜ。霊夢たちも後方支援よろしくな!」
「ま、死なない程度に頑張るわ」
「れ、霊夢さんまで」
一人おろおろと各人の顔を見回す早苗。
そんな様子を見ながら、アリスは口をへの字に結ぶ。
「あーあ。こんなことなら、虎の子の秘密兵器を持ってくるんだったわ」
「秘密兵器?」
「そ。長年の研究成果の極地。きっと腰を抜かすわよ。私の傑作を見たらね」
「そいつはいいな。今度の宴会で見せてくれよ」
「ええ。今度の宴会でね」
言い合い、二人の視線は入り口へと移す。
足音はもうすぐそこだ。
息を殺し、相手の気配を探る。一歩また一歩と導かれるように足音が近づいてくる。
おおよそ、五メートル。
互いの鼓動すら聞こえそうな沈黙。魔理沙とアリスは今一度、目の端に互いの姿を確かめる。
後、四メートル。
ぼそぼそとささやき声が聞こえる。小声で何か言い合っているのか、足音が一度止まる。
ささやきが止んだ。
「魔符『スターダストレヴァリエ』!!」
「戦符『リトルレギオン』!!」
魔理沙が星を撃ち出し、アリスの人形が天狗に襲いかかる。いかに天狗が幻想郷で最速であろうとも不意を打ったこの攻撃を全ては避けられない。たとえ一撃で仕留められなくとも追撃で仕留める。魔理沙たちがそう考えていた時、
「はぁっ!」
天狗の一人が加速した。
まるで一人だけ時間の流れが速まったかのように凄まじい速度で身体を捻り、拳を振るって魔理沙の星を叩き落す。さらにはバネ仕掛けのように足を振り上げ、アリスと人形を繋いでいた糸を断ち切る。
「なっ!」
二人が驚きに目を見開く。だが、やろうと思えばやれるはずなのに相手側からの攻撃は襲ってこず、超人的な動きを見せた天狗も拳を突き出した姿勢のまま、ぴたりと動きを止めている。
「……魔理沙さん、アリスさん。同士打ちはごめんですよ」
「へ?」
緊張を解いたかのようにその天狗は拳を下ろし、豊満な胸をほっとなで下ろす。
「せっかく探しに来たというのに攻撃されては割に合わんよな」
「仕方ないでしょう。皆さんには敵に見えているのですから」
小柄な天狗の皮肉気な言葉に、長身の天狗は窘めるように苦笑する。残った天狗の一人が不遜な顔のまま指を鳴らす。彼女たちの姿は蜃気楼のように揺らいで行き、やがて焦点が合ったかと思うと見慣れた姿へと変化していた。そこに立つのは二つの細い棒を持つ少女と赤と青の奇妙な羽を持った少女、そしてグラデーションがかった特徴的な髪を持つ妙齢の女性。
「お、お前ら!」
魔理沙たちの声に命蓮寺の僧侶、聖白蓮はにっこり笑んだ。

 

 

「すいませんでした。糸を切ってしまって」
「別に大丈夫。魔力で編んだ糸だしね」
ただでさえ狭い洞窟が、さらに狭くなった。
白蓮は土肌の洞窟でも苦にならないのかきちんとした正座の姿勢で座っている。ナズーリンは小柄な体躯が幸いして壁に背を預けて立ち、ぬえはどこか不満そうな顔で少し離れた場所に寝そべっている。
「二人と一緒に森の中で瞑想をしていたんです。それを終えて帰る途中、妖怪の皆さんに襲われたんです。話し合いはしたんですが、どうにも聞いてくれなくて。天狗の皆さんには申し訳ないことをしました」
そう言い白蓮を自らの手を擦る。血のりの跡と思しき黒ずんだ汚れが、説得後に激しいボディランゲージが交わされたことを物語っている。
「武闘派な坊さんってのも珍しいよな」
「昔は僧侶も武装してたのよ。武蔵坊弁慶を見なさい」
「でも念仏唱えながら殴りかかってくるお坊さんって何だか凄くおぞましいわ」
「確かに」
ひそひそと語り合う霊夢たち。それを聞いたわけではないだろうが白蓮はしゅんと顔を伏せる。
「私は未熟です。人間と妖怪の平等を語っているのに、暴力的な解決をしてしまいました。後ほんの少しだけ話し合う時間があれば彼女たちとも分かり合えたかもしれないというのに……」
別に殺した訳でもないのに、口に含むように念仏を唱え始める白蓮。
そんな姿を見て、ぬえがぺっとつばを吐く。
「いい加減にしなよ白蓮。分かり合えない奴とは分かり合えない。だから白蓮のしたことは正しいよ。相手をぶっ殺すことが一番手っ取り早い解決法じゃん」
さっ、と白蓮の顔に朱が走る。
「そんなことありません! どんな方とも絶対に分かり合えます! ただそれにほんの少しだけ時間がかかるだけです!」
「はんっ。だったら奴らに腹えぐられても同じこと言うの? アルカイックスマイルしながら『話せばわかる』とか言うつもり? バッカみたい」
「ぬえ!」
「二人ともそこまでだ。ここは敵陣の中、大声を出すと見つかるぞ」
「……すいません。思慮が足りませんでした」
まだ何か言いたげだったがナズーリンの言葉に白蓮は姿勢を直す。ぬえは「けっ」と一言、ごろりと白蓮に背を向ける。
「お前ら本当は仲悪いのか?」
「さて、な。ただ言葉は万能ではないし、それだけが真実を伝える手段ではないのだろうさ」
「ん? どういう意味だ?」
魔理沙の言葉にナズーリンははぐらかすように目を瞑る。話はこれでおしまい、と言う態度に魔理沙はキツネにつままれたように「ふーん」とうなる。
横目で自身の顔を見つめるアリスには最後まで気づかなかった。
「それで、これからどうするんだぜ? いつまでもここに隠れても居られないぜ?」
魔理沙の言葉に一同は沈黙を返す。
それを破ったのは早苗だった。
「あ、あの、命蓮寺に集まるというのはどうでしょうか?」
その言葉に霊夢たちは目を丸くする。
「命蓮寺? あんな里に近いところ、みすみす敵に捕まりに行くようなもんだぜ」
「私としてはもとよりそのつもりでした。残してきたみんなも気になりますし、人々を放ってはおけません」
「白蓮。気持ちはわかるけど、正直厳しいわよ」
「……いや、もしかしたら妙手かも」
「霊夢?」
あごに手を当て、洞窟の土肌を睨みつける霊夢。
きっかり五秒を数えた頃、霊夢はうんと一つ頷き顔を上げる。
「そうね。どの道、動ける者が集まる場所は必要。事態を把握するにしても実際に行動を起こすにしても拠点は必要。それに命蓮寺は――」
「なるほど。そういうことですね」
白蓮もまた霊夢の言葉に頷く。
「ん? どういうことだぜ?」
「私もよくわからないわ。あんなお寺が何だってのよ」
「アリスさんはともかく魔理沙さんはもう忘れたんですか。あんなに必死な顔で宝船だと叫んでいたのに」
「――あ! そうか!」
早苗の指摘に魔理沙は自らの額を叩く。
「そうか、命蓮寺ってあの宝船だったのね」
「そうだぜ。アリスはバカだなあ。今頃気がついたのか?」
「って、あんたにバカ呼ばわりされるいわれはないわよ!」
「ぐえー! 苦しんだぜ!」
先ほどの白蓮たちより余程大きな声で魔理沙を締めあげるアリス。
そんな二人を放置して霊夢たちは話を進める。
「あの空飛ぶ船を手に入れることができればこちらはかなり動きやすくなるわ。少なくとも洞窟に隠れているよりはマシ」
「それに聖輦船には世界を渡る力があります。うまくすればこの状況を打破できるかも」
「白蓮、命蓮寺はいまどこにあるかわかる?」
「あ、それは」
「私の出番だな」
腕組みを解き、ナズーリンは胸のペンデュラムを取り外す。それを中指にかけ宙へと垂らす。腕を伸ばし目を瞑る。
「命蓮寺にはこれと同じペンデュラムが置いてある。結界などで遮られていない限りは探し出せるはずだ」
ゆっくりと身体を回していくとある一点でペンデュラムが振れ始める。
「見つけた。ここから東。恐らく博麗神社周辺。やや上向き……上空で待機中か」
「OK。充分な情報よ」
「やるなあネズミ!」
「ありがとうナズーリン」
「何、大した仕事では無いよ」
そう言い、ナズーリンは再び壁に背を預ける。その頬は心なし緩んでいる。
「しかし早苗、今日はやたら冴えてるな。いつもなら『空飛ぶ基地! ロマンですね! これで巨大ロボットがあれば最高です!』とか言い出すのに」
からからと笑う魔理沙に対して、早苗は表情を固まらせる。
「あ、どした?」
「あ、いえ」
眉を寄せて、早苗は魔理沙を見る。
「私ってそういうキャラに見られていたんだなあって」
「うむ。日頃の行いってのは大切なんだぜ」
「ともあれ、命蓮寺に向かうでいいわね?」
霊夢の言葉にぬえを除いた全員が頷く。
その中でアリスは思い出したように切り出す。
「一ついいかしら? 一度家に戻りたいのだけれど」
「トイレなら恥ずかしがらずにその辺ですればいいんだぜ」
「違うわよ! ま、武器の補充と言ったところね」
不敵に笑むアリス。いつにない自信がその顔には満ちている。
「さっき言ってた秘密兵器か?」
「見てのお楽しみよ」
ふむ、と霊夢は頷く。
「なら、いっそ二手に分かれて動くべきね。各個殲滅される可能性はあるけど、それより少しでも到達できる可能性を上げるべきだわ」
「れ、霊夢さん。少しでもって」
「事実よ。五体満足で駆け抜けられるほど今の状況は甘くないわ。あんただって身をもって知ったんじゃないの?」
白蓮はぐっと拳を握る。
魔理沙も肩をすくめ、げんなりしたように言う。
「ま、私も霊夢の意見には賛成だぜ。まとまって動いて一網打尽ってのは最悪だからな。もちろん、端っからやられる気なんてないけどな。となれば、後はどういう経路で命蓮寺に向かうかだ」
魔理沙は地面に指先でぐるりと大きな円を描き、その左側に○印を描く。
「今居るのが魔法の森のこの辺。間に人間の里があって、命蓮寺があるのが博麗神社つまりここだ」
○印の右側に『人間の里』と書き、さらに右側に×印を描く魔理沙。
「さてどういうルートで向かうかだぜ。人間の里を避けようと思うと大蝦蟇の池の方から回り込むか、迷いの竹林から向かうか。妖怪の山の方へはできれば行きたくないが」
「ルートは決まっているわ」
「ん? どこだ?」
祓い棒が一閃、○と×の間を一気に結ぶ。地面に祓い棒を突き立て霊夢は言う。
「人間の里へ直進。強行突破よ」
「ちょっ! 霊夢!」
「正気ですか霊夢さん!」
慌てふためくアリスと早苗。基本的に押し黙っていたナズーリンもぬえもぴくりと眉を動かす。
「本気よ。今の状況じゃこれがベスト」
「……説明してもらってよろしいでしょうか?」
白蓮の問いに霊夢は頷く。
「連中が一番恐れているもの、それは何だと思う?」
「まんじゅうか?」
「愛、かしらね」
「自身の欲でしょう」
「……あんたらね。特に魔理沙とアリスはさっき話をしたでしょうに」
三者三様の答えに頬杖をつきながら呆れ顔になる霊夢。一人、思案顔だった早苗は顔を上げる。
「恐れられなくなること、ですか?」
「正解よ。早苗」
霊夢は頷き、早苗の頭をくしくしと撫でてやる。
瞬間、湯沸かし器のように早苗の顔がぼっと朱に染まる。
「や、やめてください!」
慌てて手を払う早苗。
「何よ? そんなに気に障った?」
「そ、そういうわけでは……ただ」
右手で左手首を握り締め、押し黙る早苗。どうにも真剣なその様子に霊夢もそれ以上言及することはしなかった。皆に向き直り、話を続ける。
「連中が恐れるもの、それは妖怪の恐怖を忘れられること。だからこそ里を襲い、徹底的な虐殺劇までやって見せた。私を近づけさせなかったのもそれが理由。なら道を示すことが今できる最善策」
祓い棒を構え、霊夢は洞窟の外を見据える。その先に起こっているであろう妖怪たちの所業を想像し、怒りに拳を握りしめる。
「戦いの先陣に立ち、恐怖に負けてはいけないと示す。それが博麗の巫女としての私の役目よ。ならばこそこそ逃げ隠れなんてできるはずもない」
「ぷっ」
空気が弾けるような音がした。
「あははは! 霊夢は本当にバカだな!」
立ち上がり、魔理沙は顔中を線にして笑う。そして、ひとしきり笑った後に、牙を剥いて見せる。
「いいぜ。こういうバカも世の中には必要だぜ。霊夢は霊夢の道を行けばいい」
「ちょっと、魔理沙」
「無駄だぜアリス。止めても一人でも霊夢は行くだろうぜ」
「無論ね」
きっぱりと言い切る霊夢。アリスは小さく首を振ると、重いため息をつく。
「……OK。もう何も言わないわ。好きにすればいい。けど、私は私のことをやらせてもらうわよ」
「もちろん構わないわよ。何なら逃げ出したっていい」
「はっ。万が一の時はそうさせてもらうわ」
「おお、逃げろ逃げろ。スカートめくれてパンツ見せないように気をつけてな」
「きゃっ!」
尻を叩く魔理沙に顔を赤くして「何すんのよ!」と抗議するアリス。魔理沙はエロ親父そのものな下卑た笑みを浮かべながら「よいではないかよいではないか」と指を動かす。乳繰り合う二人を余所に再び霊夢は腕を組む。
「後はメンバーね」
「私は霊夢さんと共に行きます」
白蓮は手を挙げ宣言する。魔理沙もアリスも動きを止めて白蓮を凝視し、何気ない動作でぬえも片眼を開いた。
「別にいいけど、同情はいらないからね」
「わかっています。ただ私自身も納得できない所があるので里に向かいたい、それだけです」
「そう。なら何も言わないわ」
肩をすくめる霊夢。白蓮は至極真面目な顔で頷く。
「ありがとうございます霊夢さん」
何となくバツの悪そうな顔をするアリス。魔理沙はどっこいしょとジジイ臭い動作で腰を上げて、軽く首を左右に動かす。ぽきぽきと気持ちいいくらいの音が響く。
「白蓮が霊夢と一緒に行くか。んじゃ、チーム特攻野郎が霊夢、白蓮、ぬえにナズーリンだな。チームチキンハートがアリスに早苗に私ってとこかな」
「ものすごく異議を唱えたい名前なんだけど」
「気にすんなよ! 生き残るのだって立派な仕事だぜ。他に異議がある奴いるか?」
声は上がらなかった。
「よし。じゃあそれで決まりだな」
「ぬえ、みんなに正体不明の種を」
「はー」
しぶしぶと頷き、ぬえは両手を合わせる。背中に付いた奇妙な羽が微動したかと思うと、その両手の中から線虫のようなものが這い出してくる。
「へえ。そんな風にできるのか」
それは色とりどりの蛇だった。大きさこそ人差し指ほどしかないが、きっちりと三角の頭部に小さな目が二つ付いている。
身をよじりながらぬえの手の平に整列した蛇はじっと霊夢たちを見つめ、やがてふよふよと海を行く稚魚のように宙を飛び腕に絡みつく。
「言っとくけどばれても私のせいじゃないからね」
「ありがとう、ぬえ」
「……ふん」
「さて、行くとしますか」
辺りの様子を窺い、霊夢たちは外へと向かう。
天には金の皿のような月が浮かんでおり、思いの外明るい。わずかに浮かぶ雲は駆け足ぎみに空を流れて、鳥の声も蟲の音も今は聞こえない。
「それじゃあ、命蓮寺でね」
「ああ、命蓮寺で」
こつんと拳を合わせる霊夢と魔理沙。そしてそれぞれの向かうべき場所へと足を向ける。少女たちが大地を蹴る。木々の間を風のような速度で駆け抜け東と北へ向かう。散ばった木の葉はゆらゆらと揺れて、地面に落ちる。少女たちの去った後には、ぽっかりと口を開けた洞窟だけがそこに残る。
爛々と輝く月だけが洞窟の闇を浮き彫りにさせていた。

 

 

影のように低空飛行を続けながら白蓮と霊夢はじっと里の方を睨みつける。
順調に人間の里に向かっていた。魔法の森を抜けた後も天狗の姿は見えず、里周辺に近付いても哨戒する姿は見受けられない。すんすんと霊夢は鼻を鳴らす。里の風下であるが特に血や焦げた匂いはなかった。
いつも通りといえばいつも通りの風景。
だが現状の事態を考えれば、異常がないことほど異常なことはない。
「おかしいわね」
「はい」
白蓮も顔を固くしている。恐らく後方を飛ぶぬえとナズーリンも同じ心持ちだろう。
「ナズーリン」
「……少なくとも近くには妖怪はいない」
淡々と答えるナズーリン。その事実がより霊夢の疑念を増やす。とはいえ、これも初めから覚悟していた事態だ。里は敵にとって狩り場でありウィークポイント。そこに霊夢たちが向かうのをあの紫が予想していないはずがない。
「っ、なるほどね」
里まで数百メートルというところで霊夢は納得したように声を出す。一度少し離れた山道に降り立ち、その様子を観察する。里の周囲、そこに薄赤い光がカーテンのように取り巻いていた。
「結界、ですか」
「これだけ強力だと近づくだけで精神的重圧を与えるわね。普通の人間じゃ通り抜けるのはまず無理。ま、檻代わりってとこか」
近づくほど増す肌を刺すような刺激。これなら里人は里の外に相当な恐怖を抱き、結界を越えるようなことはないはずだ。無理に越えようとすればそれ相応の結果が待つ。そして人々は犠牲者の亡骸を見てこう言うのだろう。罰が当たった、と。
「――本来ならば災いを払うための結界なのに」
白蓮は結界に軽く指を近づける。
じゅっ、とタバコの火を水に入れたような音を立て、白蓮の指先に小さな焦げ目が付く。
「なるほど。しかし、壊せなくはないようですね」
「まあ、そんなことしたら流石に気付かれるわね」
「霊夢さんなら解呪できるのでは?」
「んー、ただこれ。いつも私や紫が使っているのとちょっと違う感じなのよね」
目を細め、霊夢は結界を凝視する。
「何だか実体がここになくて、本体が他にあるような。どっかで見たような気はするんだけど」
「では解呪は無理ですか?」
「そうね。ヘタにいじると気付かれそうだし、時間もかかるだろうし。その間に的に見つかったら目も当てられないわ。そうなると」
頷き、霊夢は白蓮たちに振りかえる。
「〈要〉を探しましょう」
「要、ですか」
「ええ。石碑とか社とか像とか陣とか、とにかく結界を固定するための何かしらを地面に打ち込んでいるはずよ。戦闘用の瞬間的なものならともかく、長期的に大規模な結界を固定するためにはどうしてもそういう物が必要になってくるから。多分、これにもそういうのはあると思うの」
「なるほど。辻道におけるお地蔵様のようなものですね」
「そんなに縁起の良いものじゃないでしょうけどね」
納得したように白蓮は頷く。
「わかりました。手分けして探しましょう」
「数は恐らく三つか四つ。見つからないように行動して、一斉にそれを壊せば――」
「それは困りますね」
突如響いた声に全員が硬直した。
「ナズ! 離れて!」
「っ!?」
白蓮の声にナズーリンはとっさに跳ね跳ぶ。その足めがけ剣の切っ先が地面から飛び出した。
「ぐあっ!」
右足を切られ、地面に蹲るナズーリン。駆け寄る白蓮。霊夢は祓い棒をと札を構え、飛び出した剣と対峙する。
剣が動く。
ゆっくりと空間を裂くように前後に揺れ、絵具をごちゃ混ぜにしたような色が地面に広がっていく。それが人幅程度になった時、その少女は現れた。
キツネの耳かと思うほど尖った金髪、和の文字の入った耳あて、腰には太陽を象った剣を持つ。その顔に浮かぶのは尊大とも超越的とも取れる笑み。
「豊聡耳神子!」
豊聡耳神子。かつて聖徳太子と呼ばれ日出る国を治めた者。1400年もの封印から復活した彼女は幻想郷の住人でも最も新参と言える。
だがその影響力は絶大だ。
既に神霊へと転じたその存在は神と同等であり、なおかつ太古の指導者であったことから人々からの信頼は非常に高い。守矢神社、命蓮寺と並ぶ新たな勢力として霊夢も危険視していた。
「ぬおおおっ!? 太子様! 仏像が! 仏像が動いておるぞ!!」
「バカだねえ布都は。どう見ても僧侶じゃねえか」
さらに異次元から沸いて出る白い狩衣の少女と足が幽霊のように白く透き通った少女。
物部布都に蘇我屠自古。二人とも神子を慕う彼女の部下だ。どうも布都の方は完全に霊夢たちが動く仏像に見えているらしく、両手と片足を上げて「はーっ!」と威嚇を繰り返している。
「おのれ面妖な! さては貴様ら我を狙いに来た天竺からの刺客! ふふん! 残念だったのう! 今の我には太子様がついておる! お前たちなんぞ全然まったくこれっっっぽっちも怖くないわははははは!!」
「いいえ布都。あれは霊夢たちですよ」
「ほへ?」
神子の冷静な言葉を受け、布都はじっと目を細めて霊夢たちを凝視する。
「お、おー! 本当だ! 霊夢たちだ! 寺の連中もおる!」
「……何を言ってるんだか。そんなこと初めからわかっていたじゃねえか」
「屠自古! お主だって見えてなかったくせに!」
「そそそそんなわけねえだろ!」
「いーや! 我は聞いたぞ! あれが僧侶だと言っておった! 一人だけ太子様の前で良い格好しようとしても駄目だぞ! 神妙にお縄に付けえ!」
言い合いを始める二人を無視し、霊夢は神子に視線を送る。いや、視線を外せないと言うべきだろうか。
神子はほっぺをつねり合う二人を微笑ましいように眺めつつ、剣を軽く握っているだけだ。だというのに、気を抜けば一瞬で胴と首を泣き別れさせられると容易く連想させられる。それほどの闘気が神子からは発せられているのだ。
「……ふーん、あんたにはぬえの力も効かないんだ」
「万物全ての声を聞けば上辺の隠蔽など意味の無いことです。その能力も私から見れば頭の上に手ぬぐいを乗せて『姿を隠した』と主張しているようなもの」
「そう。じゃあ私が考えていることもわかるってことかしら」
「ええ。わかりますよ。人間の里に入り、全ての真実を伝えるつもりですね。そして人々を鼓舞し妖怪と戦う勇気を与える」
「わかってるじゃない」
「しかしそれは私がさせません」
軽く足を開き、切っ先を揺らす。争っていた布都も屠自古も一瞬で顔を引き締め、神子の背後で構えを取る。それに応じ、霊夢も祓い棒と札で応じる。
「思い出したわ。この結界、地脈の力を利用した物ね。道教にはそういう術があると聞いたことあるわ」
「ええ。ですが貴方ならすぐに気付くと思ったのですが。神道と道術は非常に近しい所にあるというのに。勉強不足ですね」
「なら、あんたを倒せば問題解決ね」
「待ってください」
一触即発のその間に入ったのは白蓮だった。
眉を潜める霊夢とおやと目を開く神子。
「神子さん、貴方は里が妖怪に襲われたことを知りつつなお、人々を助けなかったのですか?」
「はい。そうですよ」
「それどころかこのような結界を敷き、人々を閉じ込めようとしている」
「そうですね」
「――聖徳王。貴方はかつて人の王として人民をまとめてきたはず。そのやり方はともあれ、全ては人のためと思い行動してきたと私は思っていました。それがなぜこのようなことを! 人を殺し、人を閉じ込める! そこに生まれるは苦痛と苦悩、そして悲しみのみ! それが仮にも指導者の在り方ですか!」
「……………」
ゆっくりと剣を降ろし、神子はじっと白蓮を見る。ぴくぴくと耳が動いたのは白蓮の心の声を聞いたためだろうか。
「指導者の在り方……ですか」
「そうです! 人の上に立つ者ならば臣民たちのことを考えるのが当然でしょう! ましてやそれを踏みにじり、あまつさえ殺すなど! こんな悪徳を重ねる者に王を名乗る資格はありません!!」
「ふっ! ふふふっ!」 
もう堪えきれないとばかりに神子は口を手で隠す。高貴な者がする笑いの所作だ。その意味を受け取り、白蓮は叫ぶ。
「な、何がおかしいのですか!?」
「布都、屠自古。聞きましたか? この者の言葉を。まるで厚顔白痴な老婆のよう。これが平等などという幻想に溺れた者の末路ですよ」
「なっ!」
「それも、ああそれも! その言葉には一寸の曇りもないのです! 心の底からの本心なのですよ! これが笑わずにいられますか!!」
「っ!」
遂に大口を開けて笑い出す神子。
だがその声とは裏腹に、まるで部屋の中に忍び込んできた汚虫でも見るかのような冷たい色がその瞳には宿っている。
「忠告しましょう聖白蓮」
ふいに笑いを止め、神子は白蓮を上目づかいに見る。その様にたじろぐ白蓮。神子は剣の先を白蓮へと向け万民を先導する指導者のように言い放つ。
「貴方のやっていること、やろうとしていること。それはいずれ世界を蝕みます。醜い争いを引き起こし、無用な血を流させ、そして自らの意志と魂によって世界を滅ぼします」
「な、何を根拠に!」
「では問いますが、貴方は誰か一人でも救うことができたのですか?」
即答はできなかった。
「貴方を慕う妖怪たち。そう、確かに貴方は彼女らに好まれている。しかし、貴方の言葉を聞いている者など誰一人として存在しないのではないですか? 聞けば飲酒も食肉も人を襲うことまでも彼女らは止められていないとか」
「そ、それは」
視線は決して向けず、しかし確かに白蓮は背後に居るであろうナズーリンとぬえを思う。そして命蓮寺で自分を待っているであろう者たちを思う。
確かに神子の言う通りだ。ぬえも一輪もムラサも白蓮の言う修業を遵守はしていない。獣肉を食し酒を飲んでいたという話も聞く。死に至らせてはいないとはいえ、人を襲ったとも聞く。
ナズーリンと星にはそういった話はないが、それは彼女らが元々毘沙門天の配下であるからだ。決して白蓮が更正させたわけではない。
「それで人を救うだなどよく言えたものです。大言壮語も甚だしい」
白蓮を侮蔑するように神子は両手を挙げる。
「貴方は人というものを何もわかっていない。人は満たされることを何よりも望みながら、満たされてしまえば腐敗していくものなのですよ。人も妖怪も神でさえ〈欲望〉と〈退屈〉という猛毒からは逃れられない。貴方の側にいる彼女らが何よりそれを証明しているではないですか?」
「っ!?」
「人は満ちてはいけない。そう。常に死と隣合わせにあるくらいがよい。いつ妖怪に襲われるとも知れない恐怖に怯え、妖怪への恨みを担って死ぬ。その闇に灯る光はさぞ眩しく映るでしょう。そうですね。そういう意味では仏教というものは実に良い。極楽浄土などという蒙昧な夢を願い、勝手に苦難を耐えてくれる。これほど利用し易い思想がありましょうか」
「わ、私は――!」
白蓮が一歩を踏み出すよりも早く、霊夢が神子に札を飛ばす。必殺の呪術を込めた札は常人を殺すに十分な威力。布都と屠自古が驚愕に目を見開く中、光が一閃、札は剣捌きに紙切れと化す。
剣を振るった神子は一つ頷く。
「霊夢さん。貴方とはまだ話になりそうですね」
「私はそうは思わないけど」
「そうでしょうね。貴方の声もまた暗い。一体何に怯えているのでしょうか。妖怪に? 人間に? 生に? 死に? それとも他の何か?」
神子の頬を針がかすめる。ほんのわずか皮膚を切り裂き、神子の頬にわずかに血が流れる。
「干物野郎。あんたの狙いは何なの?」
「決まっているでしょう」
神子が親指で頬を拭う。その一瞬の動作で、針の傷は跡形も無く消えていた。
「私は私による私の国を作る。この世に未だ築かれていない完全な国を」
その表情にはまるで揺らぎはなかった。それができると確信しきっている自信に溢れた表情。
さしもの白蓮も言葉を詰まらせ、思わず見入ってしまうほど。それは布都も屠自古も同じようで横目で神子に熱い視線を送っている。
「そんなことできると思っているの?」
「貴方にはできない。そして今まで生きたあらゆる施政者にもできなかった。しかし、私にはできる。もはや寿命などというしがらみは存在しない。未来は私の手の中にある。後はいくつかのノイズを取り除けばいいだけのこと」
剣が正眼に構えられる。布都は両手で印を結び、屠自古の周囲には雷の紫電が奔る。
なおも言いだけな表情の白蓮を霊夢は制す。
「白蓮、ここまでよ」
「……っ、はい」
悔しさからか唇を噛み締め、白蓮も魔人経巻を取り出す。わずかな抵抗をする彼女らを嘲笑するように神子は一歩を踏み出す。
「安心しなさい博麗霊夢。英雄には私がなります」
「そいつは願ってもない……わねっ!」
霊夢の右手が上へと跳ね上がる。それに合わせ地面に散ばっていた札の断片が神子の右腕へと巻き付く。
「っ!」
「霊符『封魔陣』!!」
神子の右腕を中心として幾何学模様の結界が広がる。それは神子自身をも飲み込むほど肥大化し、やがて一つの球体となる。
「白蓮!」
「はい!」
白蓮の魔人経巻を走らせる。かざされた経巻から放たれた経文がさらに結界の外側に張り付く。
「た、太子様!」
「今の所は見逃してあげるわ! 待ち合わせがあるもんでね!」
捨て台詞を吐き、霊夢たちは駆け出す空へと逃げる。だが布都も屠自古は逃げる霊夢たちと封印された神子を交互に見て、身動きを取れずにいる。赤い結界に覆われた里を後にし、命蓮寺の方向へと向かう。
「ど、ど、どうするのだ屠自古! あいつら行ってしまうぞ!」
「落ち着くんだよ! とにかくまずは太子様を!」
二人は結界に向き直り、両手でそれに掴みかかる。
「熱っ!」
「た、耐えるんだ! どうあっても太子様を!」
「わ、わかっておるわ……ぁああああっ!!」
封魔陣によって手の平が焼けるのも構わず、二人は結界に手をかける。
じくじくと指先が焼け、皮がめくり上がる。パキパキという音と共に爪が剥げ始めるがそれでも二人は両手を離さない。
全ては神子。信じ身を捧げた者のために。

「あいつらも加担してたとはね。魔理沙たちは大丈夫かしら。ナズーリンの傷の方は?」
「思ったよりも酷いです。何かの術でしょうか。血が止まりません」
抱えたナズーリンからじくじくと零れでる血液。すでに靴下まで赤く染まり、確実に靴底に鮮血は溜まり続けている。すでに意識に霞がかかっているようで顔は蒼白となっている。
「――っ、霊夢さん。前方を!」
「ちっ!」
舌打ちを一つ霊夢は針を構える。闇間に見える粒のような影。向かい来る妖気は、あれが妖怪夜行の影に他ならないと知らせてくる。
「ぬえ! ナズーリンを――」
振り返りようやく白蓮は気付く。いつの間にかぬえが停止している。
「ぬえ! どうしたのですか! 早く!」
「……もう、無理だよ」
「ぬえ?」
まるで親に怒られた子どものような顔でぬえは何度も口を開く。何かを言おうとして、でも言えなくて。まるで窒息しそうな稚魚のようにぬえは幾度となくそれを繰り返す。
やがてぬえは蚊の飛ぶような声でこう言った。
「――逃げようよ。白蓮」

 

 

「まずいわね」
無事アリス邸まで辿りついた魔理沙たち。だがその家の中には数名の天狗が入り込んでいた。
玄関に見張りが一人。中で家探しでもしているのかタンスや机をひっくり返すような音が聞こえてくる。森の茂みで身を隠しながら、アリスは渋い顔で落される植木鉢を見る。
「ま、当然っちゃ当然だな。しかしアリス。お前全然信用されてないな。完全に敵扱いだぞ」
「うるさいわい」
「どうしますか魔理沙さん」
「そりゃ、こうすりゃいいさ」
「ちょ魔理沙!」
アリスの制止よりも早く魔理沙は立ち上がり、悠々と天狗たちの元へ歩いて行く。
「誰だ!?」
「お疲れ様です!」
びしりと敬礼を返す魔理沙。
声無き悲鳴を上げるアリスに反し、見張りの天狗はほっと息をつくと槍を下ろす。
「お前か。脅かすな」
その様にほんの少しだけ頬を釣り上げると、魔理沙はにこやかに笑って見せる。
「あんまり気張っているとバテますよ。別に大した敵などいないでしょうに」
「相変わらず楽観的だな。お前は」
ははは、と笑う天狗。魔理沙は背に隠した左手でピースマークを作って見せる。
「だが敵は多いぞ。藤原妹紅は八雲紫様が対処していると聞くが、博麗の巫女やあの魔法使いも未だ捕まっていないらしい」
「この家に住んでいる根暗な奴もですよね」
「……誰が根暗よ」
「アリスさん抑えて」
憤慨するアリスを余所に見張りの天狗はうむと頷く。
「ああ。それに裏切り者のもこの近くに潜伏しているらしい」
「裏切り者?」
ふーと息を吐き、腕組みする天狗。
「はあ、素直に山の決定に従っていればよいものを。そんなに身を滅ぼしたいのか」
つぶやく天狗。それ以上の詮索は藪蛇になりかねないと判断する。
「じゃあ、これはその裏切り者の捜索で?」
「いや、これは別口だ。何でもこの家で確保せねばならないものがあるらしくてな」
「へ? こんな寂れたしょぼい家に何があるというのですか?」
「魔理沙、後でぶっ潰す」
「抑えて抑えて」
「詳細は我々も知らん。何でもでっかいトランクだとか。まったく何故我々がこんな下働きのようなことをせねばならんのか。理解できんよ」
「それ!」
身を乗り出しそうになるアリス。
「――もしかして探し物ですか?」
「ええ。でもなんであいつらがアレのことを。まだ誰にも見せた事無いのに」
ちらりと後ろを窺い、魔理沙は小さく息を吸う。
「じゃあ、私たちが代わりに探しておきましょうか?」
見張りが瞬きを一つ、
「いいのか? そりゃあ願ってもないが、お前一人じゃ危険だろ」
「いえ大丈夫です。そろそろ仲間が来るはずですから」
ちらちら後ろを向き、目で「出てこいや」と魔理沙が訴えてくる。目を見合わせるアリスと早苗。
「……行くしかないわね」
「ですね」
「いい早苗。あいつらには私たちが天狗に見えているはずよ。とにかく天狗っぽいことを言えばいいのよ。自信を持っていきましょう」
「はい!」
「よし!」
湿る手を握り締め、アリスは立ち上がる。猫背になりそうになるのを抑えて胸を張り、あえて自信満々に歩幅を広げる。茂みを抜ける。魔理沙が手を振る。信じているぜ、そんな風に言っている気がする。息を吸い込む。見張りの天狗はまだ何も言ってこない。
よし。
意を固め、魔理沙を見据えて一言、
「ごめぇん、まったぁ~?」
魔理沙の顔が引きつり、石のように固まった。
「もう先に行っちゃうんだもん! 心配したんだよぉ。でも私が来たからア・ン・シ・ン!」
くねくねと身体を動かし、魔理沙の鼻を指でつつくアリス。魔理沙の顔が真っ赤に染まり、ダラダラと気持ちの悪い汗が流れ出す。対する早苗はあまりの事態にパニックに陥っているのか視線も動かさずに直立して天狗を見ている。
「あ、あの、そのだな。えーと」
とにかく事態を収拾しようと頭を回す魔理沙。もういっそアリスを殴り飛ばして、敵に売り飛ばすかとまで考えた。だがそんなことをしようものなら、全員の正体がバレかねない。
何か、何か良いアイディアは無いか。この事態を取り繕う奇跡的な発想は――
「ねえ、ちゅーする?」
ダメだ。もうダメだ。
頬を染め迫り来るアリスに、魔理沙は全ての理性を放棄する。こうなればこの見張りを張り倒すしかない。中に居るのは恐らく二人。全員で殴りかかって山に埋めてやる。ついでにアリスも埋めてしまおう。そうすれば全てがうまく行く。そんな気になってきた。
箒を握り締め魔理沙は見張りに振り返る。既にフルスイングの体勢に入っていた魔理沙の腕が止まったのは、その天狗の顔が余りにも蒼白だったからだ。
「あ……あぁ……」
「あの。どうされました?」
びくりと身体を震わせ、天狗はドアを破るように家へと入っていく。小声ながら切迫したような会話が二、三聞こえたと思ったら、三名の天狗はうつむき加減に家から出てきた。
ごくり、天狗たちの喉が鳴る。
「お、お前にこの場は任せる。後は頼んだぞ」
「え、あ、はい」
翼を広げ、天狗たちは空へと駆ける。それこそ流星のような速度だった。
「なんだ? まるで鬼でも囲まれたような顔だったぜ」
「さ、さあ?」
「何か、あったのでしょうか」
ともあれこの場を切り抜けたことにほっと息をつく一同。しばしの間、夜風の冷たさに身を預ける。そして顔を上げた魔理沙は一言、
「アリス」
「な、なに? 何かまずいことした?」
「お前、残念だな」
「何よー!」
喚くアリスを無視し、魔理沙はアリス宅へと入る。そして「うへえ」と声を上げた。
玄関には靴が散乱し踏みつけられ、ダイニングの机は倒れて砂糖と塩が床にこぼれ、寝室はベッドまで引っくり返されている。なまじ手入れが行き届いているだけに、一種の凄惨さすら感じてしまう。
「なんか。台風一過って感じだな」
「ああ! これを作るのにどれだけ時間と労力をかけたと思っているのよ!」
靴底に砕かれ床に張り付いたガラス片。恐らくは人形の眼球になるはずだったものだ。その欠片一つ取っても幻想的に輝き、完成品はさぞや美しい瞳となっていただろうと見て取れる。
うなだれるアリスの肩をぽんと叩き、魔理沙は帽子のつばを摘まむ。
「アリス、悪いがあんまり時間はないぜ」
「くっ! わかってるわよ!」
ガラス片を部屋の隅へ押しやり、アリスは自身の寝室へと速足で向かう。そこから窓の外へと飛び出し、家の壁の隙間に人指し指を当てる。
「黄色、赤色、紫色、緑色、青色。そして極点なる白と黒。光と闇の間に全ての色は生まれ出る。全ての無なる者に色を与えよ」
アリスの呪文に呼応するように、壁の一部が光によって切り抜かれる。全ての呪文を終えた時、そこには地下へと続く階段が出現していた。
「なんだ、そんな良い隠れ家があったなら教えてくれりゃいいのに」
「そんなに大層なもんじゃないわよ。強引に作り出した場所だもの。連中に魔力探査に秀でた奴が居なくてよかったわ。それじゃちょっと行ってくるから。何かあったら知らせてよね」
「おう。任せとけ」
軽く手を振りアリスは地下へと降りていく。
「では、私は玄関の方を見張っておきますね」
「ああ、任せるぜ」
早苗の後ろ姿を見送り、魔理沙は窓の外へと視線を向ける。魔法の森の木々に邪魔される上に、人の目では夜闇は見通せない。果たして本当に天狗が襲来した場合、即座に対応できるかどうかは疑問だった。
鼻から息を吐き、何気なく八卦炉を取り出す。
「今度ばっかりはきつい戦いになりそうだぜ」
空に浮かぶ満月に八卦炉をかざす。八角の穴から見える月は黄金と見紛うばかりの美しさだった。
「――また月見しながら酒飲みたいよな。バカみたいに騒いで飯食って、空に花火みたいな弾幕飛ばして」
ぽりぽりと耳の後ろをかく。
お祭り騒ぎが幻想郷の常だ。妖怪も人間も関係なく集まり、馬鹿騒ぎに興じる。酒を飲み合い、器を交わし、空に飛んでは弾幕で彩る。
「あいつらも、すごく楽しそうだったよな」
異変が解決すれば宴を開くのは、もはや暗黙の了解となっている。そうして交流を深め、同時に全ての事件を終わらせるのだ。
きっと次の宴は、それは盛大なものになるだろう。
かたん。
聞こえた音を魔理沙は聞き逃さなかった。
無言で八卦炉を下ろし、すり足で部屋を進む。
音がした場所。寝室のクローゼットの中。八卦炉を構える。万が一の時は早苗を呼ぶ必要もあるだろう。スペルと助け、その両方を叫ぶ用意をし、魔理沙はクローゼットの取っ手に手をかける。アリスはまだ上がってこない。早苗もこちらに来る様子はない。もう一度だけ耳を澄ます。
軋むような音がした。
「っ!」
クローゼットを開く。八卦炉を向ける。
そこには人影があった。
必死に口を両手で押さえ、涙を目尻に浮かべながらいやいやするように首を振っている。
「に、にとり?」
河童、河城にとりがそこに居た。
「っ!」
一瞬の気の緩みを正す魔理沙。確かににとりとはそれなりに長い付き合いだし、人間を盟友とする好意的な妖怪でもある。だがそんな彼女でも敵でない保証はどこにもない。
口を引き締め、改めて八卦炉をにとりへと向ける。
「ひっ!?」
にとりはびっくりするくらい縮こまる。
「な、何だか私の方が悪役みたいだぜ」
「殺さ……ないでぇ……」
血の気の引いた声でにとりが鳴く。
とても人を殺せる様子には見えない。
「あ、あのなにとり」
「や、やあああっ!」
伸ばした魔理沙の手から逃げるようににとりはクローゼットの端へと移動する。
「どうしたんだ。にとり、何が――あ、」
ふと思い至り、魔理沙は腕に巻かれた正体不明の種を指でつまむ。あっさりとそこから身を離す小さなヘビ。
それを確認し、魔理沙は八卦炉を帽子の中へとしまい、にとりの目線と同じになるようにしゃがみ込んだ。
「ほら、にとり。もう一度私を見るんだぜ」
「あ……え? まり、さ?」
「そうだ。私だぜ。大丈夫かにとり」
まるで亡霊でも見るようににとりは魔理沙を見る。
背負っているリュックから人工の手が伸び、ぺちぺちと魔理沙の足に触れる。
「足、ある」
「幽霊じゃないぜ」
くい、と魔理沙の口を開ける。
「牙、ない」
「吸血鬼じゃないぜ」
ふにふにと胸を触る。
「胸、ない」
「どういう意味だぜ」
全身の力が抜けたようににとりはその場にへたり込んだ。その両眼からボロボロと涙がこぼれ出る。
「ご、ごめん。なんか力抜けちゃって……」
「いいぜ。落ち着くまで泣けばいいんだぜ」
「魔理沙さん、どうしたんですか?」
「あーいや、何でもない。見張りを続けてくれ」
答え、肩をすくめる魔理沙。
「まあなんだ。泣き顔なんてあんまり見られたいものじゃないだろ?」
「……ありがと。でも、もう大丈夫だよ」
涙を手の平で拭い、大きく息を吐くにとり。
にとりと同じ視線になるよう腰を屈め、魔理沙は声を潜める。
「それでにとり、何があったか話してもらえるか?」
「う、うん。それはいいけど。えっと、どこから話せばいいかな?」
「んじゃ、なんでお前はこんなところに居たんだぜ?」
「ああ、じゃあ。そこから」
思い出したかのように手袋を脱ぎながら、にとりは左右の髪を爪先でいじる。
「天狗の連中がさ、来たんだ。それで『人間を襲う。かつての妖怪の力を取り戻すんだ』って言って」
「……それで?」
「もちろん私を含めて河童たちはみんな反対したんだ。当たり前だよ。人間は盟友だし、今更妖怪の力とかそんなの……。そしたら天狗たちは仲間を捕え始めた。抵抗する奴は襲われた。多分死んだと思う。こいつら本気だってわかったよ」
だんだんと声色に緊張が混じり始める。
「私たちは逃げた。迷彩スーツを使えば白狼天狗の千里眼もかいくぐれるし、これなら逃げ切れるって思ったんだ。だけど途中で気付いた。仲間が一人、また一人って減っていくのに。何か、何かが私たちを襲っているんだ」
「何かって?」
にとりはかぶりを振る。
青い髪が汗で湿った頬に張り付く。
「天狗じゃない、と思う。天狗より早くて、それなのに鬼みたいに強くて。だけど吸血鬼でもない。そんなのじゃないんだ。もっとおぞましくて恐ろしくて……強い。結局パニックになって、仲間たちは散り散りになっちゃった」
その時の光景を思い出してか、にとりは血の気の抜けた唇で人差し指を噛む。
「っ、私は山の神社に向かったんだ。神様たちなら何とかしてくれると思ってさ。そこで」
「待たせたわね」
小声で断り窓を越えるアリス。その手には巨大なトランクが握られている。
瞬間、アリスとにとりは目を見開き言葉を失くす。
「に、にとり? 魔理沙、どうしてにとりがここに?」
「それを今聞いている所なんだぜアリス。まあ大体私たちと境遇は同じみたいだけどな」
「ああ」
事情を察し、アリスは頷く。一方のにとりは未だ驚愕に頬を引きつらせている。
「ま、りさ。そこに居るの、アリスだよね? じゃ、じゃあさっき声をかけたのはアリスじゃないの?」
「ん? いや、早苗だけど」
今度こそにとりは混じり気のない恐怖に顔を染める。
「そ、そんなはずないよ……だって早苗は……早苗は」
帽子越しに髪を掴み、にとりは首を振る。まるで脳裏にこびり付いた不吉な想像をかき出すように指先で何度も髪を掻き毟る。
「違う、違う違う違う! そんなわけないよ!!」
その尋常ではない様子に、とにかく落ちつけようと魔理沙はにとりの腕を掴む。
「にとり! 落ち着け! どうしたんだよ!?」
魔理沙に腕を掴まれ、ようやくにとりは自傷を止める。落ち窪んだ瞳でにとりは魔理沙を見る。
「私見たんだ。助けて貰おうと思って神社に駆け込んで。それで――」
言葉を口に出せば真実になる、にとりは言葉を詰まらせた数秒はその意味を逡巡する間だった。
「死んでたんだ」
くぐもった足音。
「死んでたんだよ。早苗は。だって血を流して! 床に倒れて! だから、だから!」
すぅ。
小さな呼吸音。

「早苗が居るはず無いんだよ!!」

 ――瞬間、にとりが爆ぜた。
そう思えるほどに、それは唐突ににとりを貫いた。
真っ赤な鮮血と黒紫の臓器に塗れる中、それには白の色があった。
包帯。何重かに巻かれた様子にそう思い至る。腕を辿る。鮮血に染まった指先、腸が絡む手首、にとりの胴、大した返り血も浴びていないレースの服。そしてクローゼットと頑丈な壁。
軽く指先を開閉し、腕は壁の中へと戻っていく。にとりの胴から湧き水のように血があふれ出す。
にとりが倒れる。倒れた背後にこぶし大の穴を見る。
黒目がちな瞳が覗いていた。
「本当、河童は余計なことしかしませんね」
「アリス! にとりを!!」
「っ! にとり、しっかり!」
腹を押さえるにとりをアリスは引き寄せる。その身体は臓器の一部をくり抜かれ、大量の血を奪われていた。人間ならば即ショック死。また妖怪といえども早急な治療が必要だろう。にとりの呼吸は浅く、意識こそあるようだが相当に危険な状態であるのは明らかだ。
壁にヒビが入る。まるで大洪水を受け止めているように全体に割れ目が走り、表面が曲線を描く。遂に圧に耐えられなくなったように、壁は灰色の粉塵を舞い上げながら砕け散る。その中を悠々と歩き寄ってきた早苗の瞳には一切の光りが消えていた。
「っ! 早苗! お前は!」
「ああ、それにしても――」
魔理沙の声を無視し、ガンマンの早撃ちのように早苗の腕が跳ね上がる。眩い光が一閃、アリスに向かい放たれる。
「っ! アリスっ!?」
「だ、大丈夫! で、でも」
弾丸のように撃ち出された弾丸はアリスの横を抜けトランクを撃ち抜いていた。焦げ付いた匂いと共にトランクにはこぶし大の穴が開いていた。
「こうも計画が狂わせると少し苛立ちますね」
「ど、どうしてこれを。そうよ。さっきの天狗だって」
「今はのんびり話をしている時間はないぜアリス」
そう言い、魔理沙は箒の先を早苗へと向ける。
「にとりが心配だ。さっさと片をつける」
「……え、ええ」
にとりを抱えたまま、アリスも人形を周囲に浮かばせる。魔理沙とアリス。殺気立った二人の腕利きを前にしても早苗はまったく視線を動かさない。あまりの静けさに、ごくりと息を飲み早苗を見つめるアリス。
姿は何も変わっていない。だが先ほどまでの喜びも焦りも怯えもしていた早苗はもうそこにはない。まるで感情という仮面を叩き割った結果、その裏に隠されていた本当の顔が現れたようだ。
「片付ける?」
早苗が左手に乗せていた正体不明の種をゆっくりと握り潰す。種の体液だろうか、黒いタールのようなもの早苗の指の間から垂れ出て床へと落ちて消えた。
「できるものなら、どうぞご自由に」
瞬間、早苗の身体が数十倍に巨大になる。いや、なったように錯覚した。アリスはその場にへたり込み、呆然と早苗の様を眺める。
華奢な身体から溢れ出る殺意と神力。それは具体的な重さとなって身体を締め付けるほどの気は近くに居るだけで魂を削られるほどだった。それが身体に巡らせていた隠蔽用の結界を解いただけだと気づけた者はこの場にはいない。
本当の顔どころではない。
仮面の下にはバケモノが居た。
「っっ!!」
不整脈に陥り猛烈な吐き気に口を手で押さえるアリス。まともに早苗の姿を見る事すらできず、涙目の視界ににとりの血だけが鮮やかに映る。
「アリス!!」
「っ!」
目の前に飛び込んできた黒い影を思わず受け止めるアリス。思いのほか軽い感触に目を白黒させる。
「――これっ!」
「にとりを連れて逃げるんだぜ」
「で、でも!」
金の髪をなびかせて、魔理沙はアリスに微笑みかける。
「後は、任せたぜ」
「――っ魔理沙! あなた!!」
「行け!!」
その声に弾かれたようにアリスは駆け出す。左手ににとりを抱え右手にトランクを持ち、人形に魔理沙の帽子を持たせて窓から空へと向かう。その姿が夜闇に紛れたのを確認し、魔理沙は早苗に笑いかける。だが引きつる頬ではとてもうまくは笑えない。緊張を解すように口を押さえながら魔理沙は言う。
「はは……妖怪よりもよっぽど妖怪じみてやがるな。お前の顔がまともに見えなくなったぜ」
「それは光栄です」
「正直、こんなに手が震えるのは初めてだぜ」
無意識に頭に手を伸ばし、何も掴まない指先に、代わりにおさげを軽く撫でる。
「答えろ。お前の目的はなんだ?」
つまらなそうに早苗は両手に撒かれた包帯を見る。半渇きの血に濡れた右手。まっさらな白に包帯が巻かれたままの左手。
「この世界の救世主になる――なんて言ったら笑いますか?」

森の中をアリスは飛ぶ。やがて聞こえてきた轟音にも振り返ることはしなかった。魔理沙を信頼していると言えば聞こえはいいが、要は恐ろしかったのだ。
先ほどの早苗。
あらん限りの不吉と恐怖を押し固めたようなアレはもはやアリスがどうこうできる存在ではない。遥か古代の祟り神、月世界の女王、魔界の支配者。それらにも匹敵する超常たる力。早苗がいかにしてあんな力を持ちえたのかなど想像の範疇を超えているが、一つだけはっきりと理解できることがある。
アレには立ち向かってはならない。
「はっ! はっ! はっ!」
息が上がる。何だかやけに身体が重い。まるでもう一人分誰かを抱えているようだ。これじゃダメだ。もっと速く飛ばないと。アレからもっと離れないと。そうだ。命蓮寺だ。あそこまで行けば助かる。だって霊夢や白蓮がいるから。彼女たちはとても強い。きっと敵を倒してくれる。自分を守ってくれる。
「――っ!」
視界が開けた瞬間、アリスは滑るように茂みへと身を落す。小石や枝で身体を擦ったがそれを気にしてはいられない。息を殺し草葉の間から顔を覗かせる。
天狗だ。
まだこちらには気づいていないようで、辺りを見回しながら言葉を交わしている。
見つかれば終わりだ。あのバケモノの元に連れて行かれてしまう。そうなればどうなるだろうか。
殺される。
どんな風に? 
きっと容易く絶命などさせてはくれないだろう。霊夢たちがもしも逃げ回っていたならその居場所を吐かせる為に拷問されるかもしれないし、ただの暇つぶしに弄ばれるかもしれない。
その先をアリスは想像する。
全身の皮を剥がされるだろうか、四肢を落とされ達磨のような姿にされてしまうかもしれない。耳から溶けた鉛を注ぎ込まれ脳を溶かされ、肉切り包丁でゆっくりと身体の肉を削がれていく。どの道そこには死ぬより残酷な苦痛があり、きっと可能な限りの手段をも用いて長く続けられるように創意工夫される。
死ぬことと殺されることは違う。
そんなことを言ったのは誰だったろうか。
「……ス」
「っ!?」
突然の声にアリスは驚愕に飛び上がりかけた。
「ア……リス、痛い……痛いよぉ……っ」
「ひっ!!」
とにかくその音を止めなければ。そう思いアリスは音の発信源である箇所を両手で塞ぐ。
その口で先ほどまで助けを求めていたことも、震える手を伸ばしていたこともアリスには理解できなかった。
穴の開いた腹の痛みと息苦しさに〈それ〉は暴れる。
黙れ黙れ黙れ。
その思いだけでアリスは全身でその身体を押し付け、歯を食いしばりながら手に力を込める。
どれだけそうしていただろうか。
翼が空を打つ音に背筋が凍る。だが天狗たちは見当違いの方へと飛び去っていく。安心感から全身の力が抜ける。そこでようやくアリスは目の前の物を視認した。
「……あ」
鼻先が当たるほどの距離。そこには焦点のズレた瞳を晒すにとりが居た。血色の良かった肌は蝋のように白くなっていて、弛緩した口には泡立ったヨダレがこびりついている。
「あ……ああ……っ」
飛びのく。にとりは動かない。投げ出された手足。眼球の下部に溜まった透明な雫。腹に開いた傷跡にまるで現実感が湧かない。
「いっ――」
怖い。
にとりの瞳が動いて自分を睨みそうで。
怖い。
今にも魔理沙がやって来て自分を責め立てそうで。
怖い。
自分のやってしまったことの全てが。
「いやああああああああああああああああああっ!!」
辺りに誰かがいるかなど考えもしない。
トランクと三角帽子を握り締めてアリスは森を逃げ出した。

 

 

内側から突き出された剣に二重の結界は破壊された。それを切り裂いた神子は剣を一振り、不機嫌そうに彼方を見やる。
「太子様!」
満面の笑みを浮かべ、布都と屠自古は神子へと寄り添う。焼け焦げた指の痛みなどすでに忘れている。だが神子は二人を一瞥し、
「貴方たちが何故ここに? 彼女らは?」
「え? あ、それは……」
言葉に詰まる二人に神子はため息をつく。
「まさか結界を壊そうとしていたのですか? 別に貴方たちの力を借りずとも私だけで十分対処可能でした。もとよりその程度の力では大した助けになどなりません。それよりも彼らの追跡や足止めをすべきだと頭は回らなかったのですか?」
「あ、す、すまぬ。でも――」
神子の視線にもごもごと言葉を飲み込む布都。興味が失せたように神子は二人から視線を外し、ヘッドフォンを耳から取る。その聴覚を最大限に活かし、霊夢たちの足取りを掴む。
「見つけました。行きますよ。二人とも」
答えを待たず飛び立つ神子。小さく頷き布都と屠自古も続く。
「――ぅ」
今更にじくじくと指先が痛み出した。

「――逃げようよ。白蓮」
ぬえの言葉に白蓮は見開く。
「何を、言っているのですか?」
その言葉の意味が命蓮寺へ逃げ込むことではないということは明白だ。ぬえが言っているのはもっと根本的なこと。すなわちこの異変そのものからの逃避。目尻を釣り上げ、白蓮はナズーリンを霊夢に預けぬえと近づく。
「ぬえ。それがどういうことはわかって言っているのですか?」
ぎゅっ、とぬえは拳を握り締める。
白蓮がさらに一歩を踏み出す。
「貴方は人々も妖怪たちも、命蓮寺の皆も見捨てて逃げろと言うのですか!? そんなことを本気で言っているなら!」
「私は白蓮に生きて欲しいんだよ!!」
あらん限りの声で叫ぶ。
白蓮は呆然とぬえを見つめる。
ひっく。
しゃっくりでもしたようにぬえは肩を震わせる。
「白蓮は、立派だよ」
ぼろぼろと涙が零れ落ちる。
視界が真っ赤になって、熱い思いと雫がこみ上げてくる。
「人を救って妖怪も救って、それで酷いことされたのに全然恨んで無くてっ! 今だってそう! 必死に異変を止めようとしていて、それで自分が傷ついても全然気にしてない!」
一瞬の、間。
「――私だって、白蓮に酷いことしたのに!!」
行き場のない感情を吐き出すように、頭部に爪を立てて掻き毟る。
「でも、世界の人たち全員白蓮が救うの!? 無理だよそんなの! 絶対にできっこない! それで白蓮が傷ついて、悩んで、後悔して!! これじゃあ白蓮は誰が救うんだよ!!」
「……ぬえ」
「誰!? 人間? 妖怪? 神様仏様? 誰も救ってなんかくれないよ! なら! 白蓮が傷ついて、し、死んじゃうんだとしたら!」
この夜、ぬえは初めて白蓮を真っ直ぐに見た。もう止められない。張り裂けそうな激情を思うままに言葉にする。
「私は世界なんか救わせはしない! 絶対に邪魔してやる! 白蓮を苦しめる世界なんか無くなっちゃえばいいんだ! 白蓮を苦しめる仏なんて私が殺してやる!」
両手を振り下ろし、ぬえは叫ぶ
「白蓮は私が守るんだ!!」
停止したような時の中、ぬえの呻くような声だけが響く。
霊夢も白蓮もぬえも全員が思考を放り出していた。
「――あ」
白蓮のこぼしたそれは言葉ではなく、ただの空気が漏れ出した音だったのかもしれない。
右手で涙をぬぐい、ぬえは白蓮に手を伸ばす。
「……白蓮」
ぬえの細い指先はかすかに震えていた。
思わず白蓮は背後を見る。押し黙り白蓮を見つめる霊夢とその肩に抱かれて浅い息をくり返すナズーリン。白蓮の指先からは血の気が引き、どくどくと鼓動する心臓は張り裂けるのではないかと思うほど痛む。
「――わ、私は」
「見つけましたよ」
ふいに聞こえた声に冷水をかけられたように霊夢たちは硬直する。満月を背に神子たちが立っていた。先ほどの結界がプライドを傷つけたためか、神子の顔には嗜虐的な笑みが浮かんでいる。
舐めるように剣を眼前に構える神子。さらに反対側から迫る影はすでに目に映るほどになっている。霊夢は舌打ちを一つ、祓い棒を構えるが片手にナズーリンを抱えている状態ではまともには戦えない。
「白蓮!」
叫ぶ。だが白蓮は案山子にでもなったかのように神子を見上げて硬直している。ぬえは神子たちなど居ないように白蓮をじっと見ている。
「白蓮!」
再び叫ぶ。だがもう間に合わない。神子は剣を振り上げ白蓮に迫る。今更回避も防御もできない。霊夢のフォローも間に合うかどうか。
「死になさい! 聖白蓮!」
その時、一筋の光が白蓮と神子の間を貫いた。
さらに一瞬遅れて無数の弾幕が向かってくる。それらは確実に神子たちを狙いすましており、剣で弾幕を払いながら神子は宙へと飛び上がる。
「っ誰だ!?」
「野暮じゃのう。せっかくの晴れ舞台。じっくりと見物してやるのが粋というものであろうに」
神子の問いに答えたのは、飄々とした女性の声だった。
大きな尻尾を揺り動かし、彼女は神子の前に立ちはだかる。
「っ、お前は」
「そういえば、もともと儂はお主を倒すために呼ばれたんじゃったなあ。これも因果は巡るという奴かの」
そう言ってマミゾウはかかかと老人のような笑いを上げる。
「いやしかし。よく言ったものじゃのう、ぬえ。恥かしがり屋のお前がなあ」
ぬえを振り返り、にやりと笑うマミゾウ。ぬえの顔がトマトのように赤く熟れる。
「そ、そんなこと言いに来たの?」
「いやいや、お主があの告白を叫ばんかったら、敵と間違えて攻撃してしまったかもしれんぞ。おかげで命拾いしたな」
「こ、告白とかそんなんじゃ」
「二ッ岩マミゾウ」
ぬえの言葉を遮り、神子は底冷えする声でマミゾウを呼ぶ。
「妖怪である貴方がなぜそいつらを助ける。貴方も消えたくはないでしょうに」
「ん? 別に儂は外の世界でもうまくやっとったぞ?」
「っ」
ケロリと答え、マミゾウは木の葉をくるくると回す。
「別に恐怖を与えるのだけが妖怪の使命でもあるまいに。幻想を願う心は外の世界だって人々の中にだってちゃんと息づいておる。要は心持ちじゃよ。もしそれでも恐怖を与えたいと願うのならば」
木の葉が止まる。声を潜めマミゾウの視線が神子を射抜く。
「恐れているのはお主の方ではないか?」
「貴様!」
「狸という奴はどうにもお気楽極楽でな。人間とは騙して騙されるくらいがちょうどいいんじゃよ」
マミゾウに追いついてきた無数の影。それは幾人もの妖怪狸たちだった。全員手に獲物を持ち大きな尻尾を振りつつ神子たちを威嚇する。その様子にぬえは顔を俯かせる。
「……ごめん」
「なに。もともと儂はこのために呼ばれたんじゃろ? ちょっと先延ばしになっておったが、友との約束は守るものじゃろうて」
一つウインクをしてぬえの背中を叩くマミゾウ。
続いて白蓮の元へと近づき、その前髪を両手でかき上げる。
「顔を上げるんじゃ白蓮」
「……マミゾウさん」
「欲張りとてよいよい。絶対に守りたいと思うなら、しがみついてでも守り通すのじゃ。それが良い女になる秘訣じゃぞ」
そっと顔を近づけ、
「ぬえをよろしくな」
神子へと振り返り、両手に木の葉を取り出すマミゾウ。
「霊夢よ! 後は任せたぞ! 聖輦船はこの先じゃ!」
頷き霊夢は白蓮たちを引きずるように先を急ぐ。
「布都! 都自古!」
「そうはさせぬぞ聖徳王。ここは儂らの意地の見せどころよ」
マミゾウは木の葉を辺りに振りまく。十枚の木の葉はたちまち煙に包まれマミゾウの瓜二つの分身が現われる。妖怪狸たちも武器を構えて、神子たちへと殺到する。
「〈佐渡の妖怪狸〉二ッ岩マミゾウ、そして幻想郷化け狸連合。推して参る! 今宵が満月であったことを恨むが良い!!」

 

 

 ときおり背後の空が瞬く。それが弾幕の光であることは明らかで、アリスは片手で頭をかばい、半狂乱になりながら森を駆け抜ける。
やがて荒い息をつきアリスは地面にへたり込んだ。一度身体を止めると汗は湯水のようにあふれ出し、口の中に酸っぱい味が広がって来る。トランクはもう引きずるようにしか運べず、その端が地面を削り、アリスの歩いた後には一筋の線が残る。
「私は悪くない……私は、悪く……」
ぶつぶつとつぶやくアリスは目の前に森が開けた場所があることも、そこにある岩の上に一人の人物が居る事も気付かなかった。
「珍しい奴に会ったもんだ」
「っ!?」
何故こんな匂いにすぐ気付かなかったのか、とアリスは自分を責める。岩の周りには四人分の死体。服装からして天狗であることは間違いない。唯一死体ではない巨躯の天狗は岩の上に立つ幼女に首元を掴まれ宙吊りにされている。
「よお。アリス」
「す、萃香さま……た、助け……」
「謝罪とかどうでもいいんだよ。お前は人間を襲う妖怪として生きるって腹をくくったんだろ? この伊吹萃香の前でそう誓ったんだろ? なら最後までそれを貫けよ。虐殺した後で逃げ出すなんざ、許されるわけないだろ」
尻もちをつき萃香たちを見上げるアリス。その巨大な天狗は天狗の中でも最高位とされる大天狗に相違ない。それをまるで子どものように扱う萃香。その身体には一体どれほどの強さがあるというのだろうか。小さな右手が大天狗の口の中に突き込まれる。物のついでのように黄ばんだ歯が砕け散る。
「おごぉっ!?」
「鬼は嘘が嫌いなんだよ。知ってるだろ?」
「おぉ! おぶぉ!」
「二枚も舌はいらないだろ? 一枚貰ってくよ」
ぶちっ!
萃香が手を引くと、赤い芋虫のような物が天狗の中から引きずり出された。
「おっごおおおおおおおおおおおおおおっ!! あぁるぅああ! あぁあ!」
奇妙なうめき声を上げながら必死に腕を振り回す天狗。それをあざ笑うように萃香は手にした舌を握り潰す。大天狗の泣き顔をアリスは初めて見た。
「それに、こんな口もさ」
「っ!?」
左手を喉元からこめかみに移動し、肉の欠片がついた右手が天狗の下アゴを掴む。萃香の意図を察し、大天狗は丸太のような腕で萃香の細腕を掴む。
「ほらほら。もっと頑張りなよ。じゃないと、死ぬよ?」
「あ! ひ! あ、あ、あ!!」
血管が浮き出るほど力を込めても萃香の腕は止められない。みりみりと肉が裂ける音が響く。大天狗の目玉がひっくり返り、全身が痙攣を始める。
「あぐわああああああああああああ!!」
下アゴどころではなかった。
萃香の腕は大天狗の胸まで下ろされ、力づくに破壊されたあご、首、胸の肉が削りカスのように垂れる。トドメとばかりに顔面に拳を叩き込まれ、大天狗の生命活動は完全に停止した。
「逃げ出すなら最初から降りろよ。地底でも外の世界でも好きな所へ行けばよかったんだ。私は止めなかったはずだよ?」
地鳴りのような音を立て大天狗は倒れた。
顔面と視神経で繋がれた眼球が未練がましくこちらを凝視し、アリス声にならない悲鳴を上げる。
「まだ居たのかい?」
「ひっ! ひっ!」
「別に殺しゃしないよ。そんなに怯えられて鬼の面目躍如だけどさ」
抜けた腰でもがくアリスを捨て置き、萃香は運動後の一杯とばかりに瓢箪をあおる。
「それよりさ。行かなくていいのかい? そろそろ船出だよ?」
そう言われアリスははっと気付く。聖輦船がいつまでも待ってくれる保証はない。霊夢たちからしてもさっさとこの場から逃げ出したいのは同じだろうし、状況が変わればどこか別の場所に移動してしまうかもしれない。
別の恐怖に駆り立てられアリスは立ち上がる。その時初めて、自分が魔理沙の帽子を被っていたことに気付く。
「待ちなよ」
不意に声をかけられ、硬直するアリス。萃香はアリスに近付き、すんすんと鼻を鳴らす。
「血の匂い。河童のだね」
「っ!!」
「見捨てたのか」
石像のように直立し、アリスは虚空を見る。視界には稲妻のようなノイズが無数に走り、ぐらぐらと足元が揺れてしまう。
「別にいいさ。お前がどんな選択をしようとそれは自由。今のところは私の敵にはなってないしね。だけどさ。他の連中はそうは思っていない。人間と仲良くする妖怪なんざ殺しちまえって奴もいる。このまま行けばあんたも紅魔館の連中と同じになる」
「こ、紅魔館の連中?」
「紫が聞いたのさ。もし本気で妖怪として生きるならば、そのメイドを妖怪にするか殺せってね。それでレミリアの奴すごい怒ってさ。『咲夜は妖怪にはしないし、殺させもしない。あんたらの指図なんか受けない』だってさ。あれは格好良かったなあ」
激しくなる動悸。
「ま、連中負けたんだけどな」
あっさりと言い放ち、再び酒を傾ける萃香。ちゅっぽん、と糸を引き、瓢箪から口を離す。
「あんたはどうするんだ?」
「――え?」
「あいつの話じゃ、あんたは人間につくらしいけど。状況が変われば人も変わるもんだろ? 今からあの船に行って霊夢か白蓮を殺したらどうだい? そうすりゃ一気に妖怪の仲間入り。手柄も立って万々歳さ」
「そ、それは」
「じゃあ人間側につくのかい? そうなると私の敵か」
冗談とも本気ともつかない萃香の言葉。真っ赤な瞳に見つめられ、アリスは何の答えも返せぬまま小さく首を振る。萃香は肩をすくめて、瓢箪を振り回す。
「一人じゃ何も決められないのか。だけど、死なないことと生きることは全く別だよ。お人形さん」
「っ!!」
「そのまま大切な物を捨てていけばいいさ。でもさ、捨てて捨てて捨てて捨てて、最後には自分さえ無くなって、空っぽの身体でせいぜい長生きしな」
瓢箪を肩に担ぎ、萃香はアリスの横を通り過ぎる。その瞳は何の興味も失くしたように、冷めきっていた。その足音がかき消えた後、アリスは糸にでも引かれるように歩き出す。
「あ……」
足が滑る。悲鳴も出ない。
森の斜面をごろごろと転がる。目まぐるしく回転する世界と口に広がる土の味。
ようやく止まる。顔に付いた土がくすぐったい。横になった視界には穴の開いたトランクが映る。握り潰した紙のようにアリスの表情が歪む。
「あ、あ~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!」
童女のようにアリスは泣きだした。

 

 

 雲間を行きながら腕から正体不明の種を外す霊夢。
もはやこんなもの役には立たないだろうし、先のマミゾウのように味方にも敵と認識されてしまう恐れがある。
「とにかく命蓮寺、聖輦船に合流するわよ」
「――はい」
短く答える白蓮。ぬえはその後方、かなり距離を離して付いてきている。
「白蓮。あんた、どうするの?」
問いの意味を吟味するように、白蓮は唇を舐める。
「わかりません。ただ」
「ただ?」
「後悔は、したくないです。もう二度と」
「……そう。」
「姐さん!」
少女の声と共に周囲に浮かんでいた雲が動き出す。
そしてその雲は巨大な男の姿を取り、さらにそこに隠していた船の存在を露わにする。
「一輪! 雲山!」
「大丈夫ですか!? 怪我は!?」
近づいてきた金の輪を持つ少女。命蓮寺に住まう入道使いの一輪だ。周囲の雲は一輪のパートナーである入道の雲山。白蓮は一輪の言葉に表情を硬くし、霊夢に抱かれたナズーリンを見る。一輪はきゅっと唇を結んだ。
「とにかく聖輦船へ。ここから離脱します」
「ちょ、まだマミゾウが」
ぬえの言葉に一輪は小さくかぶりを振る。
「置いて行け、そう言われたよ」
何かを言おうと口を開き、先ほど神子たちの前に立ちはだかったマミゾウの姿を思い出す。
唇を震わせるぬえは、結局何も言わなかった。
「さあ、早く!」
一輪に促され聖輦船に向かう霊夢たち。その甲板に足を下ろし、大きく息を吐く。
「ナズ!」
一人の虎柄の少女が駆けつけてきた。毘沙門天の代理人にして命蓮寺の崇拝対象、寅丸星だ。
「星! ナズを!」
「はいっ!」
ナズーリンを抱え上げ、船内に急ぐ星。
遠くの空では弾幕の光が今なお煌めいている。
「魔理沙たちは到着している?」
「いえ、まだ誰も」
「そう」
シンプルな答えに小さく頷き、霊夢は目を瞑る。
敵はどこからくるかもわからない。
神子たちを相手取っているマミゾウは果たして連中を倒せるだろうか。魔理沙たちは一体どうしたのだ。何の問題も無ければとっくに到着しているだろうから、あちらでも何かしらの問題が発生したのは間違いないだろう。
思考を天秤にかけ、霊夢はすぐに答えを出す。
「行きましょう。あいつらもそんなにやわじゃないわ。自力で追いついてくるわよ」
「はっ。いいですね。姐さん」
「……ええ」
操舵席に合図を送る一輪。そこに立っていた少女、キャプテンムラサこと村紗水蜜は一輪に手を振り返し、舵輪を一気に回す。船首が旋回し、幻想郷のそのまた果てを目指して動き出す。
「白蓮、すぐにでも異世界へ飛べるの?」
「少し時間をください。法力を船に溜めないと」
「わかった。できるだけ早くね」
「はい。それでは船首に居ます。何かあったら呼んでください」
静かに言い、白蓮は経文を取り出しながら船首へと向かう。その後を見送りぬえは一度顔をうつむかせると、白蓮とは別の扉へと向かった。
「はー、ったく」
霊夢は船の壁に背を預ける。
すっと水滴の浮いた水筒が目の前に差し出された。
「霊夢。水は?」
「ん。ありがと」
一輪が差し出した竹筒を受け取り、浴びるように傾ける。口の端から水が溢れ出し、服が濡れるのも気にせず、霊夢はのどを鳴らし続ける。
「っぷは。こんなに旨い水は久々よ」
「舟幽霊が手ずから入れた水だからね」
「柄杓で?」
「うん。もう一つ一つ丁寧に」
くすくすと笑う一輪につられ、霊夢も軽く頬を緩める。
その背後では未だ断続的に光りが上がる。
「ムカつくわね。ただ見ていることしかできないなんて」
「……………」
じっと見つめてくる一輪と雲山に霊夢は眉を寄せる。
「なによ?」
「いや、霊夢ってもっと冷たい奴かと思っていたからさ」
「どういう意味よ」
「宝目当てに海賊みたく船に乗り込んできて、乗組員を張り倒していった人の言葉とは思えなくてね」
「それって嫌味のつもり?」
「わはは」
誤魔化すように一輪は頬をかく。ふん、と鼻息荒く霊夢は水筒を一輪に押し付ける。
「必要があれば協力するわよ。ただ人間に危害を加えるなら手加減しないけどね」
「ふーん?」
一輪は霊夢をまじまじと見つめる。
「なによ?」
「いや、霊夢って以外といい説法家になりそうだなって思って。仏教に興味は?」
「冗談じゃないわ。説法して欲しかったら賽銭寄こしなさいよ」
雲山と顔を困ったように見合わせ、腰を上げる。
「姐さんたちにも水渡してきますね」
「そうしなさい。できれば死ぬほど冷たい奴をね」
苦笑し船内へと入って行く一輪。一人残った雲山はじっと霊夢を見つめる。
「なによ?」
「……………」
ぺこり。
雲山は霊夢に頭を下げると、小さな雲に収縮し一輪の後を追う。
「なんなのよ。調子狂うわね」
ぽりぽりとこめかみをかきながら、霊夢はぼんやり船首に視線を向ける。
経巻を広げながら念仏を唱える白蓮。その身体は燐粉のような光が立ち昇っており、遠めでも神聖なる気配が漂ってくるようだ。その様子を一輪と雲山は無言で見守っている。
「やれやれ」
遥か下方の地上には夜の森がある。昼間はざわめきと深緑の葉で人々を癒す木々も、今では光合成すら止めてひっそりと佇んでいる。
「あいつら。早く来なさいよ」
苛立つように言い、木々の陰から魔理沙たちが現われないかと身を乗り出す。
がたん。
船尾から衝撃音が聞こえてきたのはその時だった。
顔を引き締め船尾へと向かう霊夢。そこに居たのは黒い帽子をかぶったアリスだった。
「アリス! 無事だったのね! その帽子は?」
ぱっと明るくなる霊夢の声。だがアリスはトランクを投げ出し、何も見たくも聞きたくも無いとばかりに瞳を閉じて耳を手で塞いでいる。その態度に唾を飲み、霊夢はアリスの肩に両手を置く。
「アリス。魔理沙と早苗は?」
問いにびくりとアリスの肩が震える。
「知らない……私は、何にも」
「アリス。本当のことを話なさい。魔理沙と早苗はどうしたの!?」
「れ、霊夢さん」
アリスを揺さぶる霊夢を見て慌てて戻ってきたのだろう。白蓮が二人の間に割って入った。
なおも掴みかかろうとした霊夢だが雲山の白い手がその身体を抱きしめる。
「ダメですよ。まずは落ち着きましょう。一輪。水を」
「はい」
水筒をアリスに手渡し、そっと肩に自らのマントをかぶせてやる。ちびちびと水をすすり、ようやくアリスの呼吸が整っていく。
「大丈夫ですよアリスさん。ここはもう安全です」
「……………」
「何があったのですか? 話して貰えませんか?」
唇をまごつかせ水筒をもう二度口へ含み、ようやくアリスは口を開く。
「早苗が……裏切ったのよ」
実にへたくそな説明でアリスは今までの経緯を話し出した。自身の家に行ったこと、天狗が逃げ出し家に入ったこと、自分がトランクを取りに行っている間に早苗と魔理沙が対峙していたこと。魔理沙に促されここまで逃げてきたこと。
「それじゃあ魔理沙は?」
アリスは小さく首を振る。
「わからないわ。生きているのか死んでいるのかも。ただ、この帽子を預けて」
黒の三角帽子を握り締め、アリスはうつむく。重苦しくなる空気に慌てて一輪がフォローに入る。
「だ、大丈夫だよ。あの魔理沙がそう簡単にやられるはずないって」
そんな一輪の言葉に霊夢も腕組みし頷く。
「ま、そうよね。あんなのが相手じゃ死神だっていやがるわ」
そんな霊夢たちの言葉にアリスもぎこちなく頬をほころばす。精一杯の作り笑顔だった。
「白蓮! そろそろ行けるよ!」
操舵席から聞こえるムラサの声。白蓮は頷き、船内へ戻る扉に手をかける。
裂くような悲鳴が聞こえた。
「な、なに!?」
慌てて船内を覗く面々。そこには星を抱く一人の少女を見る。
「あらら。見つかっちゃった」
青い髪にかんざしを挿し半透明の羽衣を纏うのは、布都らと同じく神子を慕う邪仙、霍青娥だ。その目の前の壁は綺麗な円形に切り抜かれている。
「っ、そうか、あんたも居たわね」
霊夢の声におどけるように青娥は身をくねらせる。
「忘れるなんてひどいじゃない。あんなに愛し合った仲なのに」
「ふざけるんじゃないわよ。そいつをどうするつもり?」
「ちょっとこの子に用事があってね。貰っていくわよ?」
「そんなことさせないよ!」
金の輪を構える一輪。霊夢と白蓮も戦闘態勢に入る。
「せーがー。こいつはいいのか?」
まったく緊張感の無い声が聞こえたかと思うと、聖輦船の壁を破って一人の少女が現れた。
その少女、青娥の創り出したキョンシー宮古芳香は、一直線の腕で無造作にナズーリンを持ち上げる。芳香に痛めつけられたのか、先の足の傷こそ塞がっているがナズーリンの身体はボロボロになっていた。
「ご、ご主人を……返せ」
「そうねー。そっちはいいわ。ポイしちゃいなさい」
「あーい」
言われるまま芳香はくり抜かれた穴にナズーリンを放り投げる。飛ぶのもままならないのかナズーリンの小さな身体は風と重力に翻弄され落ちていく。驚きに目を見開く面々。慌てて一輪が外へと飛び出した。
「雲山!」
雲山の巨体がナズーリンを受け止める。その様を眺めながら青娥は艶やかな唇を弓なりにする。
「さーて、それではそろそろおいとましますわ」
「逃げられると思ってんの? この状況で」
じりじりと間を詰める霊夢と白蓮。外では雲山と一輪も青娥に拳を向けている。
即座に芳香が間に入り、ぐるると犬のように威嚇する。
「ありがとう芳香。でもその必要はないわよ」
「なんですって?」
「貴方たちこそ状況をよく見た方がいいわよ。ほら、あんな所にダイダラボッチ」
ふいに船内の影が深くなる。
気付き窓から空を見上げる霊夢たち。そこにあったのは圧倒的存在感を放つ影だ。
特徴的な人型のシルエット、背中には巨大な翼、肩には凶悪な棘、頭には日照のような飾りと悪魔じみた二本の角。
「非想天則!?」
すっとんきょうな声をムラサが上げた。
その隙に青娥と芳香は穴から外へと飛び出す。
「それでは皆さん、ごきげんあそばせ」
「せーがー。はらへったー」
「くっ!」
忌々しげに奥歯を噛む霊夢。だがそれ以上に目の前に立ちはだかった非想天則に意識を向けてしまう。
いや、向けざるを得ない。
その圧倒的プレッシャー。殺意が形となったかのようなおぞましい気配が聖輦船を包み込んでいるのだから。
その頭頂に一人の少女が立っていることに気付いたときアリスの顔が絶望に染まる。
「さ……早苗っ」
アリスに気付いてか、早苗はアリスを一瞥すると、黒いゴミ袋を投げ寄こした。
避けることもままならず、それをモロに受け止めてしまうアリス。肉汁が顔に降りかかり、むせかえるような異臭に頬が引きつる。まるで腐りかけの豚肉を投げつけられたようだ。慌ててそれを跳ねのけると、茶赤に染まった肉の中にわずかな金を見る。
目が合った、という表現はこの場合正しくないだろう。それには眼球と呼べるものがなかったのだから。いや、目だけではない。腕も足も鼻も耳もそれにはなかった。それらは全て何者かの手によって毟り取られていた。
「いっっ!!」
「忘れ物ですよアリスさん」
声も出せない中、早苗の言葉だけが淡々と耳に響く。がちがちと歯が噛み合い、やる場の無い後悔と恐怖を搾り出すように両手で髪を鷲掴みにする。
「あ、あ、あ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああ!!」
半狂乱になりながらもそれに近づけないアリス。あの見慣れた顔と目の前の苦悶めいたデスマスクがどうしても結びつかない。あの金の瞳はどこにいった。あの太陽のような笑顔はどこにいった。あの力強い両手はどこにいった。
ふいに虚空の瞳が動いて見える。
お前のせいだ。
そう言われた気がした。
「早苗っ!!」
霊夢の叫びに早苗は気の無い視線を向ける。
「ここに集まってくれてありがとうございます。これで白蓮さん共々始末できますよ」
「早苗、あんたは! あんたは!」
血が出るほど歯を食いしばり、霊夢は早苗を視線で殺さんとばかりに睨む。
「みんな何かに掴まって!!」
ムラサが叫び一気に舵を取る。そして非想天則の腹に向かい一直線に突っ込んでいく。
「たかが風船! この聖輦船を止められるか!? そのどてっ腹に風穴空けてやる!」
白蓮の法力に自身の妖力をブーストし、聖輦船を一気に加速させる。いかに巨大といえども非想天則は宣伝用アドバルーンに過ぎない。聖輦船の突撃をモロに受ければ破れることは想像に難くない。舵を引き上げ非想天則の腹に狙いを定める。だが、早苗の顔には能面じみた無表情だけがある。
「確かに非想天則はただのハリボテ。何も想うことはなく、天の意に則し揺れ動くだけの虚空なる存在。しかしこれは洩矢諏訪子が作りしヒトガタ。依代としてこれ以上の物は無い」
ぬめるように早苗の右手が動く
そっと非想天則の頭部に触れると、その周囲に獣めいた風が早苗の中心に渦巻く。それが意味することを理解し、霊夢は驚愕に目を見開く。
「――なっ」
祝詞が紡がれる。
祭りが始まる。
闇のような気配が空から集まり、早苗を通し、非想天則に巨大な塊が流れ込む。
「神降ろし『ミシャグジさま』」
瞬間、雪崩のように黒い蛇が非想天則の表面を走る。その指先、その足先、その身体の隅々まで蛇は到達し、吸い込まれるようにその中へと入り込む。
どくん。その時、霊夢は確かにそれの鼓動を聞いた。
「降臨せよ。非想天則《大蛇》」
「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!!!!!」

人ならざる言葉でそれは咆えた。
表面は黒い血管のようなものがびっしりと浮き、背には七十八本もの蛇が気狂いのように身をよじる。チープな人形は一瞬して生々しい現実へと変わった。燃えるような瞳と口で非想天則は聖輦船を凝視する。
アリスは耳を塞ぎ、白蓮もびりびりと肌を逆立てる。誰も彼もが時を止められた。非想天則の両手が合わせられ、その中に眩い光が生み出され、ようやく霊夢たちもはっと状況に気付く。
「っ! はあああああああああ!!」
足よ砕けろと踏み込み、霊夢は飛翔する。狙うは非想天則の上に立つ早苗の心臓を一突き。早苗さえ止めれば、それを通して降ろされた神も還るはず。あの光が放たれる前に勝負を決める。止めなければならない。それに対し早苗も祓い棒を取り出した。
二つの祓い棒が重なり合い、火花を散らす。
「あんた! 何を考えてんのよ!」
「世界平和、でしょうか?」
重心をずらし、早苗は霊夢の身体を左へと流す。つんのめる霊夢のわき腹に鋭く右ひざの蹴りを叩き込む早苗。霊夢は右手で結界を展開しそれを受け止める。だがそれでも巨木に打たれたような衝撃が響いてくる。
落下。
ブレーキをかけながら、弾かれた勢いを利用し宙で体勢を立て直す。
「遅いですよ」
「っ!」
一瞬の後に早苗はもう目の前まで迫っていた。弾幕を生み出し早苗へと放つ霊夢。それら避けることすらなく、粒子を撒き散らしながら一直線に早苗は霊夢に向かう。
「なら!」
円をかくように両手を回す霊夢。霊夢の胸前に陰陽の紋様が浮かび実体化する。
「宝符『陰陽宝玉』!!」
特大の弾幕が早苗に迫る。だが早苗はただ淡々と右手を手刀にして振り上げる。底冷えする悪寒に霊夢はとっさに身を捻り、ムラサも目一杯に舵を切る。
「……開海『海が割れる日』」
淡々と唱えられるスペル。振り下ろされた右手は光の線となり、陰陽玉を容易く両断し、聖輦船の船体の一部を削り取り地上へと届く。一瞬遅れ巨大な土煙が一直線に地上から上がる。
「――な」
地の果てまで届いたかと思うその威力に霊夢も言葉を失くす。早苗が祓い棒を構え直し、霊夢を見る。凝縮された死の直感が霊夢を襲う。
「っ! 『夢想天生』!!」
霊夢の周りを虹色の結界が取り囲む。
夢想転生。
空を飛ぶ。すなわち自身と外を分けることによって完全な隔絶空間を生み出す霊夢の究極奥義。
全開まで力を解放した霊夢の能力は、万象一切の侵入を拒む。地を焼く炎も、街を洗い流す波も、天雷の光も霊夢を傷つけることは叶わない
霊夢が本気で『空を飛ぶ』時、さしもの紫ですら手出しはできなかった。
なのに。
「夢想天生。それが一つの〈目標〉でした」
結界の外側から声が響いた。
「なっ!?」
卵の殻を破るように、結界にヒビが入る。虹色の結界は徐々に黒に覆われていき、やがてその零れ落ちた欠片の隙間から白い手が飛び出し、虚無のごとき冷たい瞳と視線が絡む。
「そん……な」
「初めて弱音を吐きましたね。霊夢さん」
両手が差し込まれ、結界をこじ開ける。青ざめた霊夢に向かい、早苗は祓い棒を振りぬく。傍から見れば一瞬で無数の傷がついたと錯覚するだろう。目にも映らぬ早苗の攻撃は霊夢の胸を七度切り裂いた。
産道より生み出された胎児のように、霊夢の身体は天から零れ落ちる。
「霊夢さん!」
誰かの悲鳴が聞こえる。だが霊夢の耳はもはや何も捉えてはいない。暗転する視界の中、ただ一箇所だけがやけに眩しい。
「全てはここから始まる。新たなる世界、新たなる秩序、新たなる歴史が」
光が明るさを増す。巨大な太陽を背負うように非想天則の手の中で光が凝縮されてゆく。
落ち行く霊夢、呆然と佇む聖輦船の面々を見ながら早苗は腕を振り上げた。

「奇跡『客星の明るすぎる夜・轟』」

 早苗の腕が振り下ろされる。非想天則が咆哮し、全ての光を解き放つ。
天が裂け、地が啼いた。
非想天則から放たれた巨大な光の柱が、視界の全てを埋め尽くす。太陽の輝きにも匹敵するそれは、万物事象あらゆる摂理を焼き尽くす創生の光。
幻想郷に住まう全ての者がそれを目撃していた。
人里で、妖怪の山で、紅魔館で、魔法の森で、そして永遠亭で。
逆さの視界でそれを見つめながら、霊夢は早苗の声を聞く。
「――さようなら。霊夢さん」
轟音と衝撃が全身を襲った。

 

 

 

 

胸の痛みに目を覚ます。

 

 

 

 

どれくらい眠っていただろうか。
柔らかな光が深緑の間から降り注ぐ。
すでに日は昇っていた。
胸を押さえながら立ち上がる。とにかく状況を知りたい。木を支えに森を歩く。森の先に開けた光がある。
その光景を見て霊夢は言葉を失くす。
並ぶ田畑に、ぽつぽつと点在する家屋。その軒先ではニワトリが地面をつついている。
さらさらと清水を運ぶ小川。その中でおよぐ魚たち。のどかな原風景の中に、人々の恐怖に歪む姿は無い。ほんの少し前まですぐ側にあったもの。そして今はもう失われたもの。
間違いない。見間違えるはずがない。

「――幻想郷」

温かな風が頬を撫でる。
土と人の香りが霊夢を迎えた。

 

 

「消えた?」
早苗の口から出た言葉に紫は訝しげな声を上げる。扇子で隠しているため、その口元は窺えないが、穏やかな心中でないことは刺すような気配から明らかだ。
「姿を消したというよりもどこかへ移動した、という様子でしたね」
非想天則の足の甲に腰かけながら、早苗はどこか人事のような視線を紫に向ける。対する紫は深刻そうな顔で扇子を持ったまま、地面に視線を向ける。
「紫さん。意見を聞かせてください」
丁寧な口調なのに、まるで詰問のように早苗の言葉は響く。
「ロマン的に言うならば運命のイラズラ。因果が交差する点ではときおり不可解なことが起きる。こういう動乱の中では特に」
「現実的に言うならば?」
「……時空の歪みが影響した、と考えるのが妥当ね」
扇子を畳み、紫は焼け焦げた森を見る。
大地は隕石でも激突したかのようにえぐれ、結晶化している。周囲の森は焼け、危うく森林火災になるところであった。
「一度歪んだ時空が強力な圧によって再び開いた。その結果、霊夢たちは時空を超えて別の場所または時間へと移動した」
「つまりこの件は偶発的なものであり、他者の意思は介入していないと?」
「断定はできないけれどね」
早苗は一旦目を瞑る。その身体を撫でるように一陣の風が髪を揺らす。
「紫さん」
「なにかしら?」
「降りたいのならば、いつでもどうぞ」
「……………」
「私は一人でもやります。この世の誰を敵に回しても歩みを止めるつもりはありません」
早苗は両手を風へとかざす。手首に巻かれた包帯が悶えるように解けていき、白い身体は風に攫われる。
そこにあったのは両手を掴むように刻まれた黒い痣だった。黒いタールでも使ったかのようにそれはくっきりと早苗の両手に残っている。法師でなくとも一目見れば、それが呪詛に近いものであることは一目両全だろう。
「今更降りるつもりなんてないわ」
「そうですか」
あっさりと頷き、早苗は非想天則から腰を上げる。紫の横を通り過ぎ、空へと飛び上がる。
「少し出ます。留守の間はよろしくお願いしますね」
「ええ」
早苗の後ろを非想天則は無言でついて行く。規則的な地鳴りは少しずつ紫から離れていき、やがて夢幻のように聞こえなくなった。
「……………」
残った紫は扇子の桜模様を見つめ、大きく息を吐く。
「紫様」
いつの間にか藍と橙が目の前に居た。自身の時間感覚が狂ったのかと思ったが、思い返して否定する。出るタイミングがなくて待っていただけだ。そう自分を納得させ扇子を閉じる。
藍は無言で一歩前に出る。暗がりの中、その服を橙が握っていると紫は気付く。
「なにか、作りましょうか?」
「そうね」
何も言わず聞く藍に、心中で感謝しながら紫は答える。
「お茶でも貰いましょうか。飛び切り熱くて濃い奴を」

 

 

「――幻想郷」
思わず口に出してしまったが、ふと違和感を覚え、霊夢は首を振る。
そこは確かに幻想郷の人間の里のように思える。里の稜線は基本的に同じように見えるし、遠くに見える山は記憶の中の妖怪の山と一致する。だがオンボロだったはずの柵は初々しいほどの新しさだし、畑の様子も違うように思える。確か里の手前には霧の湖から流れ来る支流の一つがあったはずだが、あるのはちょっとした窪みだけ。何より昨夜にはあったはずの結界も、殺戮の跡も綺麗さっぱり消えている。
「ぐっ!」
ずきり、と胸の傷が痛む。刻まれた巫女服とさらし、そしてその下にある七つの傷はこれが現実と語っている。
「そうか、私は……」
口に出したとき、背後に迫る気配を感じた。
左手を上げたところで祓い棒を持っていないことに気付く。辺りを見渡せば十メートルほど離れた木に祓い棒が引っかかっている。
舌打ちを一つ。仕方なしに懐を探る。針と札は残っていた。それらを両手に取り、茂みから迫る足音を待ち構える。
「巫女様! 博麗の巫女様ぁ!」
茂みから飛び出してきたのは里人と思しき面々だ。みすぼらしい格好をしているが、その顔の真剣さは本物だ。
霊夢はほっと息を付く。
まだ里は死んではいない。取り返すことが出来る。
胸の傷は痛むが無事をアピールしなければならない。左手を降ろし、霊夢は軽く右手を上げて彼らに手を振る。
「心配ないわ。私はここに」
彼らはその横を素通りした。
「――え?」
素通りして茂みの奥へと駆けて行ってしまう。
「……………」
上げてしまった片手が死ぬほど恥かしい。
霊夢はすぐさま腕を降ろし、祓い棒を奪うように木から取る。
きっ、と顔を上げて霊夢は彼らが駆けて行った方へずんずん足を進める。木々の奥から声が聞こえた。
「ダメですよ巫女様。こんな所に居ては。身体に障ります。今は身体を休めてください。見張りなら私たちがいたします」
「食事も用意しています。生憎、大したものはございませんが」
それらの会話に余計にイライラする。まるで風邪の子どもに対する祖母の言い草だ。何よりも自分以外の人間が巫女呼ばわりされていることが何より許せない。
「ちょっとあんたたち!」
はたして里人はそこに居た。目を丸くしてなんだこのバカ女は、とでも言いたげな視線を向けている。
その中心に居るのは長身の美少女だ。紅白の巫女服に身を包み、朱色の髪留めをしている。すらりと伸びた長身と手足と霊夢を見つめる黒い眼差し。
「なんだあんた?」
里人が問う。
「決まってるでしょう! 博麗の巫女、博麗霊夢よ!」
「何言ってるだあんた! 博麗の巫女様はこの方だ!」
「はあ?」
思わず声が出る。
だが彼らの顔は真剣そのもので、嘘も冗談も言っているようには見えない。ぷちんと何かが切れる音がする。ずかずかとその女に歩み寄り、霊夢は胸倉を掴み上げる。
「あんた!」
その瞬間、
「あ……れ?」
ぐらりと力が抜けて霊夢はその場に倒れ込む。迫り来る地面と目を丸くする美女。その光景を最後に霊夢の意識は闇に飲まれた。

思考の途切れは体感ではほんの数秒。
だが、実際には何時間も経過していたようで霊夢が目を開けた時には暑い日差しが障子を越えて差し込んでいる。
汗だくの服が気持ち悪い。
脱いでしまおうと身体を揺らした所で、そこが温かな布団の中だと気付く。
とても上等とはいえない麻の生地だが不思議と心地良い。見えるのは茶色の天井で、どこからか涼やかな風が流れ込んでくる。
「やっとお目覚めね」
「っ!?」
そこで初めて、霊夢は布団の横にあの巫女が座っていることに気付いた。すぐさま懐に手を入れ武器を探す。だが衣服も着替えさせられたようで、針も札も祓い棒もそこにはない。
「取って喰いはしないわよ。どうも妖怪でもなさそうだし。ただの迷いの巫女でもなさそうだけれど」
巫女は側に置かれた台へと手を伸ばす。そこには霊夢の武具が並べられており、その中の一つ、陰陽玉へと巫女は手を伸ばす。
「陰陽玉。これは博麗に伝わりし秘宝。それをなぜ貴方が持っているのかしら?」
「……決まっているでしょう。私が博麗の巫女、博麗霊夢だからよ」
「ふーん」
生返事をしつつも巫女の目を鋭く霊夢の様子を観察している。そして陰陽玉を台へと戻すと、自らの懐から一つの玉を取り出した。
「っ、それ!」
「そう。陰陽玉よ。おかしいわよね? 何故博麗の秘宝が二つもあるのかしら?」
確かに巫女の手に乗っているのもまた陰陽玉である。大きさも白黒の模様も瓜二つ、何よりもそこから発せられる霊力が、それが本物であると示している。
「そう言われてもね。私も訳がわかんないわよ。っ痛ぁ」
本心からそう答え、未だ重い頭に額を押さえる。
「はあ、そう。……ほら。これでも飲みなさい」
湯飲みを差し出され、特に考えもせずに受け取る。ざらりとした陶器の表面に触れるとその冷たさに少々驚いた。さらに巫女は白い紙に包まれた粉末を取り出す。
「ついでにこれも飲んどきなさい。疲れを取ってくれるわよ。」
「ちょ、自分で飲むわよ!」
粉末を流し込もうとする巫女の手を払う。そこでようやく自分の胸に包帯が巻かれていることに霊夢は気付く。
「……………」
無言で薬を飲み、ふぅと息をつく。
本当はもう一杯くらい水を流し込みたい気分だったが、何となく言い出せる気分ではなかった。
「まったく。今日は書くことに事欠きそうにないわね」
巻物のような物を取り出しながら巫女が言う。
それは今で言うカレンダーと日記を合わせた『具注暦』というものであるのだが、もちろん霊夢はそんなことを知る由もない。
だが、その巻物の端に書かれている文字には見覚えがある。かつて博麗神社の歴史などを調べる時に見た文字。
年号。
「ちょ! なによ!」
思わず駆け寄り、巻物を掴む。
くだけた文字でイマイチ文章の内容は掴めないが、その端に書かれた一行の意味はわかる。
「――嘘でしょ」
全ての歯車がかちりと合う。里の様子に違和感を覚えたのも、里人が自分のことを知らないのも、見知らぬ女が巫女を名乗るのも、全てのまったくもってごくごく当たり前のことなのだ。
なぜならここは――
「何よ? どうかしたの?」
その声に臼を引くような動きで振り向く霊夢。
巫女は訝しげな表情で霊夢を見ている。
「あのさ」
「なによ?」
「今年は何年?」
「は?」
問いの意図を察しきれず巫女はきょとんと目を瞬かせた。だが霊夢の真剣な表情に口を開く。
「延喜十二年だけど」
延喜十二年。
西暦に直せば912年。
「うあー」
砂漠に投げ込まれた冬毛の猫のような声を上げる。
霊夢は脱力したように布団に転がった。
「何よ? 何かあったの?」
「……何でも無いわ。ただ面倒なことになったと思ってね」
背中を流れる嫌な汗に身を震わせる。
間違いない。
ここは過去の幻想郷だ。
「何よ。もしかして記憶喪失とかそういうの?」
「いいえ。記憶はこれ以上ないほどはっきりしているわ。だから問題なのよ」
「訳わかんないわね。まあいいわ。とにかく――」
雷鳴のような轟音が響いたのはその時だ。
舌打ちを一つ、巫女は立ち上がり障子を割るように叩き開ける。
「っ! あいつら!」
遠くから聞こえる悲鳴。
里の外れで黒い煙が上がっていた。

 

 

「はぁ、派手に壊れちゃったなあ」
ムラサは聖輦船の船体を手の平で叩き、うんざりしたように言う。
聖輦船の船体はそこら中に穴が空き、さらに右舷はごっそり削り取られている。早苗と非想天則の攻撃の結果だ。別段海に浮かべるわけではないので浸水の心配はいらないが、この状態で空を飛ぶのは非常に危険だろう。
その上不時着の衝撃でマストは折れ、船室もぐちゃぐちゃ。宝塔がない今、法力で修復するにも相応の時間がかかってしまう。
一応の応急処置はしたが、安定して飛べるかは甚だ疑問で、折れた操舵輪のグリップを手で遊びながらムラサは聖輦船の船体に頭を押し付ける。
「別に構わないのではないか? 白蓮の法力で直るのだろう?」
ひょっこり穴から顔を出したナズーリンの言葉に、ムラサは口を尖らせる。
「あんたは良いわよね。もうすっかり回復して」
「生命力には自信があってな。まあ本調子には程遠いが」
難儀そうに身体を船体に預けるナズーリン。
ちらりと舵のグリップを見る。
「そもそも自動操縦ならば舵なんかいらないだろうに」
「むっ!」
わざわざ口に出し、ムラサはナズーリンを睨む
「確かにそうだけど、一応私だって力を使ってるんだからね。そりゃあ重要な所は白蓮の力がないといけないけどさ。それに舵も帆も無い船なんて船じゃない! この船と私は一心同体だしそれが壊れたりしたらそりゃ身を裂かれた気分なの!」
「ふーむ、そんなものか」
腕組みするナズーリンに、ムラサは左手で右耳の下をかく。
「ねえ、ナズにはそういうの無いの?」
「さてな。あるような無いような。とはいえ、仏の道とは執着を失くすためにある。この答えに迷うようでは、私はまだまだ仏には遠いということだな」
ムラサとナズーリンは横に並び空を見上げる。船の傷とは相反して、青空には筆で描いたような白い雲がゆっくりと流れている。
「私は、大切なものはある方がいいけどね」
「だがいつかは無くなる」
「だけどさ。それを大切にしなくていいって訳じゃないでしょ」
「当然だ。食べ物から茶碗一つに至るまで、全ての物に感謝せねばならない。それは繋がっている。兎が葉を食み、狼が兎を食らい、やがて狼は死に土へと還り、その土が葉を育む。魂も物も事情さえも全ての事柄は繋がりそれぞれ一つではない。だからこそ一つ一つの物事は尊いし、その終わりを覚悟しなければならない。無論、簡単に割り切れるものではないのだろうが」
ナズーリンは船体を滑るようにしてしゃがみ込む。身体が痛むのか少しだけ眉を潜めた。そして低くなった視界の中で今も森の奥に居るであろう少女のことを思う。
「まあ、いつまでも同じ様子では困るな」
「手厳しいね。ナズは」

 森の木漏れ日は昨日の陰惨な逃走劇が嘘に思えるほどで、深緑の若葉を踏まないようにしながらアリスは森を行く。土と葉っぱの匂いの中に甘い花の香りが混ざる。森の開けた広場にそれはある。
魔理沙の墓だ。
土を掘り遺体を埋めただけの簡素なもの。墓石の代わりは適当な大きさの石を見繕った。墓石の上には黒い帽子を乗せており、墓前には大量の花が供えられている。
「意味なんかないのはわかっているけど」
手持ち無沙汰の余り森の中を徘徊しては花を集めてしまう。色とりどりの花を集めるのは純粋に楽しく、その間は沈んだ気持ちも多少は抑えられた。言ってしまえばこれは儀式みたいなものなのだと、頭のどこかでアリスは考える。
一度『普通』を踏み越えてしまった以上、そのまま元に戻れるほどアリスは器用ではない。そのために『普通ではない事』が必要になるのだ。ひたすら花を摘んでいるこの作業もそれに類するもの。
だがどの道立ちはだかるのは重たい現実だ。
「っ!」
胃がよじれるような感覚にアリスは慌てて森へと逃げ込む。昨日の夜から何も食べていなかったのが幸いしてか、大して吐瀉物は出なかった。だが胃酸の酸っぱい味はアリスの口を容赦なく蹂躙する。
「……ありがと」
上海人形からハンカチを受け取り、ドロドロの唾液を必死に拭き取る。悔しさと情けなさと自傷の思いから泣きそうになる。
魔理沙は死んだ。自分とにとりをかばって。
にとりは死んだ。自分が殺した。
そして生き残った自分は、こんな涼やかな風に当たっている。
「――魔理沙は、なんて言うかしら」
自嘲気味に笑うと、アリスは墓石から帽子を取り、頭の上に乗せる。普段帽子など被らないためか、しっくりとした位置が見つからず妙にくすぐったい。
「あれ?」
帽子の重心がずれるような感覚に、帽子を引っくり返すアリス。白いレースの裏地をなぞっていくとゴツゴツとした部分が見つかる。どうやらこの帽子には無数のポケットが取り付けられているようで、飴やら小瓶やらが次々と発掘される。
そんな中、一番奥に隠されていたのは太陽のように赤い八角形の火炉だった。
ミニ八卦炉。
魔理沙の最大の武器にして宝物。
「……どうして」
疑問に答える者は居ない。
緋々色金の冷たさを手に感じながら、アリスは魔理沙の墓にあのバカ面を見る。いつも不遜に笑ってアホなことばかりして、勝ち目もない相手にだって挑みかかる。
そのくせ負けたら本気で悔しがって勝ったら勝ったで次も負けないように影ではずっと努力していて、そこに居るだけでみんなを明るくして、いつだって出来事の中心に居て――。
嫉妬していた、と思う。
憧憬していた、とも思う。
自分は自分、相手は相手。気を病むほど長い妖怪の人生の中では、そういった自己主義は当たり前のはずなのに、アリスはたかだか二十年も生きていないような人間の背中をずっと見ていた。だからこそわかる。
生き残るべきは魔理沙だった。
彼女こそ異変を解決する主人公に相応しいはずだったのに。
「アリスさん」
声をかけられ、おずおずとアリスは背を振り返る。そこには白蓮が居て、不安げな表情でこちらを窺っている。
「白蓮」
かけるべき言葉が見つからないのか、しばし無言で顔を伏せていた白蓮だが、やがて墓の前までやって来ると懐から数珠を取り出し手を合わせる。
「やめてよ!」
合掌した手を払いのけるアリス。黒い帽子と唇を噛むその様子に白蓮は一回りも小さくなったように身体を縮ませる。
「……すみません。不快な気持ちにさせてしまったようです」
バカ正直に謝り、頭を下げる白蓮。
そのことが逆にアリスの胸をかき立てる。
「別にあんたが悪いわけじゃないわよ。ただ」
認めたくない。
その言葉をどうにかアリスは飲み込む。白蓮は何も言わず、アリスの横を抜けて森へと進む。
「船に戻りましょう。今後のことを話し合わないと」
沈黙の五秒は仮面を被るための五秒だった。
アリスは身体を翻し、再び気付いたように墓へと振り返り、
「……………」
帽子のつばを握り深く被った。八卦炉を服のポケットにしっかりと入れ、その冷たさを確かめる。アリスは白蓮を追い森へと入った。
「おかえり白蓮、アリス」
一瞬、アリスの帽子に視線を向けたムラサだったが、すぐに白蓮へと視線を戻す。その声には抑え気味ではあるが希望と不安が入り混じっていることがわかる。
白蓮は無言で右手を差し出す。そこには紫色の布が握られている。所々が黒く焦げたそれは一輪が着ていた法衣の切れ端に相違ない。
「やっぱり……あの時」
「ええ」
白蓮とムラサは顔を伏せて沈黙する。その様を見つめながらアリスもまた昨夜の記憶を蘇らせる。
神を降ろした非想天則が放ったあの一撃は聖輦船を消滅させるに十分な威力であった。それを曲りなりにも大破までに抑えることができたのは、そこに盾となった者がいたからだ。あの瞬間をアリスも覚えている。光が極大へと至る瞬間、聖輦船の前に巨大な影が立ちふさがった。大きな背中、頑強な身体付き、そしてその傍に付き添う紺色の法衣の女性。
「ぬえや霊夢は?」
「それが、わからないのです」
青い表情で首を振る白蓮。白蓮たちが目を覚ました時、すでにぬえと霊夢の姿はそこにはなかった。途中で投げ出されたのか、どこかへ姿をくらましたのか、それすらもわからない。空気が重くのしかかる中、ナズーリンが立ち上がる。
「とにかくここに居ても仕方が無い。白蓮。周囲の様子はどうだった?」
「はい。南の方に集落がありました。それほど大きくはありませんでしたが」
「敵の姿は?」
「私が見た限りではありませんでした」
「そこに行き情報を集めるのが先決か」
その意見に反対する者はいなかった。

 ほどなくして里へと到着する。
白蓮の言う通りそこは人間が住まう里だった。
大きさも人間の里と同じくらいだろうか。中央の広場をボロ着の人々が歩き回り、畑では男たちがせっせと腕を振るっている。
一見すれば平和な風景。
だが、
「活気がないね」
「活気がないというより、何かを恐れている様子だな。見ろ」
ナズーリンが指さす先には矢倉のような建物があり、そこには見張りと思しき人間が立っている。
「今にも誰かが攻めてくるという雰囲気だ。戦でもしているのか」
その言葉に表情を固くするアリス。その背に軽く手を添えて白蓮は強いて朗らかな笑顔を作る。
「行きましょう。ぬえや霊夢さんのことを聞けるかもしれません」
「ええ」
里へと続く道へと降りると、白蓮は神妙な顔つきになり一同を見渡す。この辺の仕草はまさしく法師であるとアリスは不思議と納得する。
「いいですか。決して敵意を見せてはいけませんし、目立つようなこともしてはいけませんよ。あくまでも情報収集が目的なのですから穏便に」
頷く一同に、笑みを返して白蓮は里へと向かう。
その後を追いながら、ふとアリスは気付く。
「ねえ、白蓮」
「はい」
「……いや、そうでもないかもしれないけれど」
「なんですか? 何か疑問があるならば言ってください。アリスさん」
「あー」
足を止め、アリスの視線が白蓮たちを這い回る。そして今一度里の様子を思い返し、一言。
「私たちの格好ってすごく目立つんじゃない?」
突然関節が石になったように白蓮は動きを止める。油を差し忘れた機械のように首を振り、一同の服装を見やる。ゴシック調のドレスとマント、白いセーラ服と帽子、奇妙な穴が開いたスカートに折れ曲がった棒、そして自身のフリル付きの洋服と黒い帽子。
皺の一つさえなくなったような無表情。顔に汗を垂らし、白蓮はぎこちない笑みを作る。
「な、なんとかなりますよ」
なんとかならなかった。
集落の入り口に近付いた瞬間、白蓮たちの目の前には鍬やら鎌やら熊手やらを突きつけられた。鬼気迫る髭面の男たち。女子どもは怯えた表情で家へと戻り、戸や窓の隙間からこちらを窺っている。
「あの、皆さん?」
「黙れ! 貴様らも妖怪だろう! そこから一歩も進むんじゃない!」
ずい、と鍬を突き出す男。さすがに農具を持った素人など百人相手でも物の数ではないが、まさか殴り飛ばして行くわけにもいかない。それに妖怪と言われると嘘を禁としている仏教徒としては実に否定しにくい。
「白蓮」
「わかっています」
ナズーリンの囁きに白蓮は頷く。
里の入り口。そこには里を取り囲むように道が作られており、白蓮がやってきた道と合わせて四つ辻となっている。
そして、その道を介して里には結界が張り巡らされていた。とはいえ、神子が施したような人々を押し込めるものではない。
もともと病や厄などを遮断し、里と外を分け隔てる境界として辻道や川を設けるのは一般的な事である。
だがこの結界の霊力は異常だ。
漠然と厄や病を持ち込ませないというよりも、向かってくる妖怪を追い払うための明確な意志を持っているように思える。
少々厄介なことになった。
そう心で思いながらも、白蓮は柔和な表情で男に語りかける。
「あの、私たちはただここに知人が居ないかを聞きたいだけなのです」
「知人だぁ? 下手な嘘をつきおって! どうせ貴様らも酒呑の仲間だろう!」
「酒呑?」
どこか遠くで聞いたその言葉。だがそれを詮索する余裕も無く白蓮は慌ててエア巻物を取り出す。
「とにかく、冷静に話し合いましょう。私は旅の僧侶です。ほら経典もここに」
「そんな格好をした尼がおるか!」
もっともな言い草に白蓮は困ったように両手を上げる。ため息を一つ、ムラサが聞く。
「そもそもさ、なんでそんな格好にしたの? 前は普通に法衣を着てたよね?」
「……魔界の皆さんが現代の僧侶ならこのくらい普通だって言うもので。今時、地味な法衣なんか着ていたらバカにされると」
「白蓮。騙されてるよ」
ムラサの指摘に白蓮は「あう」と小さく呻く。
「で、でも皆さんはすごく褒めてくださったんですよ? せくしぃとかえろてぃっくとか」
「白蓮。弄ばされてるよ。それって微妙に褒め言葉じゃないし」
「げ、幻想郷の方々も普通に受け入れてくれましたし」
「あそこは色々と適当だから」
「何をごちゃごちゃ言ってる!」
遂に一人の男が鍬を振り上げる。その様にムラサの顔から表情が消え、アリスも人形を取り出そうとする。
血相を変えた白蓮が間に入ろうとしたその時、
「――っ!?」
里の反対から雷鳴のような轟音が轟いた。
その衝撃と振動に里人は鍬を落とし、絶望的な視線で振り返っている。見れば里に張り巡らされた結界が消えている。どうにも今の衝撃は無理矢理結界を叩き割ったもののようだ。
「き、来たあ!」
けたたましく鳴らされる鐘の音。女子どもは家の中へと逃げ込み、男たちは武器を手に駆けて行く。
「大変です!」
「あ、白蓮!」
「やれやれ相変わらずだな」
駆け出した白蓮に、慣れたようについていくムラサとナズーリン。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」
その後を金魚の糞のようにアリスは追いかけて行く。
逃げ惑う人々に間を駆け抜ける間にも肌を刺すような妖気が里の端からか感じられる。相当な強者が憚ることも無く力を振るっている。その確証に、ごくりとアリスはツバを飲む。
震える指先からは体温が消え、不整脈に視界が歪む。
怖い。本心からそう思う。
「――でも、魔理沙なら」
ポケットの八卦炉の冷たさを指先に感じる。
魔理沙ならこんな所で逃げ出したりはしない。むしろ面白くなってきだぜ、とか言っていの一番に飛んで行くはずだ。ぎゅっと八卦炉を握り締め、震えを無理やり押し込める。
衝撃。
見ればまるで風に吹かれた木の葉のように民家が空を飛んでいる。中で隠れていたのだろう、親子と思しき二人が宙を舞っている。
「いけないっ!」
「上海! 蓬莱!」
白蓮の全身が魔力に包まれ、アリスが人形を繰る。地面に落ちる寸前に母親は白蓮に抱きとめられ、子は二体の人形が掴み止めた。
「大丈夫ですか?」
優しく微笑む白蓮。しかし母親は顔を引きつらせ、子をひったくるように抱えて逃げ出す。その反応にむっと鼻を膨らますような時間すら与えず、重く低い女の声がアリスの耳に捻じ込まれる。
「へえ。妙な術を使うねえ」
「――っ!?」
息づかいすら聞こえそうなほどの声に、即座に背後を振り返る。だがそこには怯える眼差しの人々がいるばかり。ぞくりとした直感でアリスは里の先にある森を見つめる。
「お前ら、何者だい?」
重く響く女の声と鎖の音。山の木々の間から手に槍や刀を持った妖怪たちが歩み出る。空には黒い羽根を持った天狗たちが飛びまわり、里の周囲は一瞬にして百鬼夜行の体を示す。
その中心から大木をなぎ倒して巨大な牛鬼が現れた。
それが引くのは豪華絢爛な車。
貴族か帝かと思うような車の中で頬杖をするのは小柄な人影。特徴的な二つの角。真っ赤な歌舞伎役者のような派手な着物には人を食う鬼の刺繍が施されている。
その利き手には瓢箪が握られ、合いも変わらぬ不遜な笑みは、しかしどこまでも残酷な冷たさに満ちていた。
「萃香!?」
思わず叫んだ。どういうわけか服装こそ違うが巨大な二本の角や麦色の長髪は見違えようがない。だが当の萃香にとってそれは意外であったようで目を丸くしたのも束の間、赤い瞳を細めてアリスを睨む。
「……へえ」
「っ!」
その視線のあまりの冷たさに尻餅をつきそうになる。周囲の妖怪たちからもざわめきのような声が漏れ、森の中は一瞬にして妙な緊張へと包まれた。

「伊吹ならまだしも萃香だぁ? おかしいねえ、この酒呑の真名を知る奴はそうは多くないはずなんだが」
アリスを舐めるように見た後、萃香は深い笑みを浮かべ腕を上げる。周囲の妖怪が一斉に動き出す。赤銅の肌を持つ鬼、黒い翼で天を飛ぶ天狗、様々な武器を振るう河童、その他魑魅魍魎たち。
「待ってください」
「あ?」
不機嫌な声を上げる萃香の前に白蓮がその前に立ちはだかる。
「なんだてめえは」
「思い出しました。私が封印される前、妖怪たちを束ねて悪行を重ねている四人の鬼神がいると。その者の一人の名が確か、酒呑童子」
「ちょっ! それって!」
「萃香さん」
凛とした白蓮の声が響き渡る。
「話をさせてください。聞いて退屈はしないと思います」
萃香は沈黙した。先ほどまでの荒ぶる妖気は身を潜め、まるで凪いだ海のような冷徹さで四人の異端分子を睥睨する。
鬼が笑った。
「……面白え」
そのつぶやきに周囲の妖怪はげんなりとした表情を浮かべる。萃香の気まぐれな蟲が鳴いたのだ。
宣告は短く、端的だった。
「そいつらを捕まえろ。とりあえず殺すなよ」

 

 

 里の空を飛びながら巫女は平行して飛ぶ霊夢に叫ぶ。
「なんでついて来るのよ!」
「妖怪が現れたんでしょ!? ならば倒すのが巫女でしょうが!」
「あんた病み上がりでしょう! それに、私はまだあんたのことを信用した訳じゃないわよ!」
「だったら不審なそぶりを見せたら容赦なくぶっ飛ばしなさい。それに言い争いなんてしている暇あるの?」
「あーもう! 勝手にすればいいわ!」
ヤケクソ気味に言い放ち、巫女は速度を増して里へと降りていく。それに合わせ霊夢も里へ降りる。目指すは里外れ。一見して家屋が一つ倒壊しているのがわかる。その周囲には人々が垣根を作りざわめいている。
妖怪の姿は、ない。
「里長!」

 土煙を巻き上げながら着地し、そこに居たジジイに巫女が声をかける。白髪がメッシュのように入ったその男は待っていたとばかりに巫女に走り寄る。
「おお、巫女様! ……そちらの方は?」
巫女の側にいるということで警戒の対象にしてはいないようだが、霊夢の姿を不思議そうに見やる里長。巫女はほっそりとした指先で墨を流したような髪を無造作にかく、
「あー、説明しにくいわね。っていうか私もまだよくわからなくて」
「通りすがりの博麗の巫女よ」
霊夢の言葉に里長は「は?」と口を開ける。
「――えっと、巫女様の妹君でしょうか?」
「居ないわよそんなの。とにかく今は酒呑よ。あの畜生はどこに居るの?」
「それが……去りました」
「はあ?」
拍子抜けしたように巫女が声を上げる。
「なによ? あのへべれけ野郎。酒でも切れたの?」
「いえ、その、里に現された異人が話しかけるとどういうわけかその者たちを捕らえて身を翻しまして」
「異人?」
「私も直接は見ていないのですが。おい」
里長に呼ばれ数人の男が歩み出る。鍬や鎌を手にしているのは武器のつもりだろうか。そんな物が妖怪相手に役立つとは思えず、霊夢は鼻を膨らまして腕を組む。
「その連中はどんな奴らだったの?」
「はっ。でもええっと、何て言えばいいか」
「変な連中でして。確か四人組で全員女でした。妙な服装をしていて、気が狂っているのかと思いましたぜ」
「そうそう。こう、金と紫の髪を持っていて、白いキノコみたいなひらひらがあって」
「なんか柄杓を持ってる奴も居たな」
「あ、自分は坊主だとか言ってなかったか?」
「おお! 言ってた言ってた!」
「何よそれ。全然わかんないわよ。あんたらタヌキかキツネに化かされたんじゃないの?」
眉を潜める巫女に対し、霊夢は額を押さえていた。
あまりにも心当たりが多すぎる。間違いなく白蓮たちだろう。四人組というのがどうにも解せないが、ここまで来て人違いだったならばそれこそ笑い事だ。
連中と酒呑なる妖怪がどういう関係だったかはわからないが、面倒に巻き込まれたのは間違いないだろう。いや、自ら飛び込んだのが正しいのかもしれない。
「――合流するしかないわね」
そう腹に決め、霊夢は妖怪たちが戻って行ったと思われる方向を見る。予想通り、そこは現在で言う妖怪の山であった。
「待ちなさい」
肩を掴まれる。掴んでいるのはもちろん巫女で、沼底のような深い黒で霊夢を見つめている。
「行かない方がいいわ。あそこは妖怪どもの巣よ」
「行く理由はあるのよ」
「何? そいつら知り合い?」
「まあね」
「命を賭けるほどの?」
「……………」
――少なくとも重要な戦力と認めてはいる。
だが命を賭けるほどかと言われれば肯定はできない。
霊夢の中では自身の生存が第一だからだ。博麗の巫女としてそれは当然のことだ。
「見捨てろという訳じゃないけど、冷静に判断しなさいよ。平静さを欠いて出した結論は成功すれば増長し、失敗すれば後悔することになる」
「……うるさいわね」
巫女の手を払い、その黒い瞳を睨みつける。
こうして並んでようやく霊夢はその巫女の背が自分よりも高いことに気付く。
「私の勝手よ。指図される筋合いはないわ」
負け惜しみみたいに響く言葉に自分で苛立ちながら、霊夢は巫女に背を向けて歩き出す。
「巫女様」
里長の声を聞いているのか聞いていないのか、巫女は小さくなってゆく霊夢の背を見つめ、刀のように瞳を細めた。

 山に入り百メートルを歩いた所で、妖怪の拠点の場所がまるでわからないと気付く。こうなればそこらの妖怪を片っ端から殴り飛ばし、場所を聞き出すかと考えたがすぐにそんな必要はないと考え直す。
なぎ倒された木々がまるで道標のように山の果てに続いているからだ。その後を向かって行けば拠点に着けるだろう。
「そしてこういう連中も出てくるわけね。わかり易くて結構なことだわ」
「博麗の巫女か? いや違うな」
「だが巫女には違いない」
「ならば殺すぞ」
現われたのは三人の天狗だった。犬のような耳と尻尾を持つそいつらは山の警備を担当していた白狼天狗だ。現在の幻想郷と違うとすれば、霊夢の知る天狗たちよりも遥かに血の気が多く、遥かに冷徹であるということだろうか。霊夢が巫女と見るや否や即座に戦闘態勢に入る天狗たち。油断無く剣と盾を構え、じりじりと霊夢を包囲する。
「……………」
左手に祓い棒を正眼に構え、右手に札を握る霊夢。その様に白狼天狗たちはわずかに頬を緩める。
人数とリーチ、どちらでも勝る故の余裕。霊夢の腕と祓い棒の長さを計算し、脳裏に距離を測る。自分たちが攻撃でき、相手の攻撃は届かないその絶妙な距離。三人の天狗がその位置に足を運び目配せ、悟られないよう重心を前に傾け一気に、
「――っ!?」
眼前に迫る石つぶて。思わず天狗は状態を逸らしそれを避ける。次に天狗が見たのは振り下ろされんとする祓い棒の柄だった。
「一つ!」
強かに振り下ろされる腕。天狗の一人はそれで地面に沈んだ。振り向き様に右側の天狗に札を放つ。即座に盾をかざす天狗。
「なっ!」
盾から逃げるように軌道を変える札。
驚きの声と爆発は同時であった。
「二つ!」
「くっがあ!」
最後に残った天狗はガムシャラに剣を向けてくる。
斬り入りも度外視し、大股に踏み込み、狙うは霊夢の右首筋。とにかく一撃与えれば首を落せる。人はそれほどまでに脆い。
瞬間、天狗の剣は空へと消えた。
驚きも束の間、再び現われた霊夢の蹴りが天狗の後頭部を捉えた。
「三つ」
避け損ねた剣によって裂かれた首の皮から、ぷっくりと血が湧き出る。それをぬぐい細い息を吐く。
瞬間、霊夢は木陰の間から飛び来る針を見る。
「ぎゃっ!」
短い悲鳴と共に、背後に迫っていた天狗は地面に膝をつく。
「――助けてなんて言った覚えはないけど?」
「助けるのも私の勝手でしょう。まったくもって面倒臭いことだけど、死に急ぐ馬鹿を止めるのも巫女の仕事なのよ」
黒い髪に指間を通しながら巫女は森から歩み出る。
そして肩に刺さった針を抜こうと健闘する天狗へと祓い棒を向ける。
「なっ」
首を切り払おうとする巫女の祓い棒を、寸前で霊夢は受け止めた。ぎりぎりと拮抗する祓い棒。
眉を寄せて巫女は不快感を顕わにする。
「どういうつもり」
「あんた、今何するつもりだった?」
「もちろん殺すのよ。だいたい、その腕なら十分仕留められたでしょうに。何をしているのよ」
「……殺す必要なんて」
「馬鹿」
小さく言い、巫女の右足が跳ね上がる。右手で防御したものの霊夢の身体はゴム鞠のように弾き飛ばされる。空を飛ぶ間に姿勢を直し、霊夢は木の幹を足場に身体を止める。睨み合う二人の巫女。
「ふざけてんの? あんた本当に巫女?」
「妖怪を退治するのが巫女でしょう」
「違うわね。妖怪を殺すのが巫女よ」
あたかも合わせ鏡のように、霊夢と巫女が祓い棒と札を両手に構える。
「あんた、よほどヌルい所で巫女をしていたみたいね」
「なんですって」
「妖怪を退治する? それは妖怪を追い返して、もうこんなことしちゃだめですよー、なんて叱りつけるってことでしょう? それが甘えでなくて何なのよ。妖怪は反省も後悔もしないわ。いくら倒しても彼らを生かしていれば三日も経たずに人を襲いに来る。そのたびに追い返せっての? 馬鹿じゃないの。倒せる敵は倒しておかなければならないのよ」
「それは」
もっともな意見だと思う。
ここは千年以上も前の世界。妖怪が跋扈し、帝であろうとその脅威に晒された時代だ。
人間と妖怪が最も争いあった時代。
人間と妖怪が最もお互いの存在を認めた時代。
そして恐らくは、紫たちが目指そうとしている世界。
「――見過ごせないのよ」
「は?」
「私なんてこの世界にとっちゃただの冗談みたいな存在かもしれない。たまたまここに転げ落ちて来て、誰かを助けたり、殺したりする権利なんかないのかもしれない。だけど」
ここでの行いを肯定すれば、見逃してしまえば、
「きっと同じ事をしてしまうから」
「訳わかんないわね」
じゃり。
巫女の足が一歩を踏み出す。
「選びなさい。すぐに里に戻るか、ここで私に息の根を止められるか」
「どっち道、そいつらは殺すんでしょ?」
「当然ね」
「ならどちらも選べないわ」
「そう」
鋭い視線を向ける巫女。もはや同じ巫女というよしみも守るべき人間という認識も捨て、倒すべき敵として霊夢を見ている。
「ならば、もう語るべき言葉は無いわね」
「私は――」
足を踏み出し、巫女が駆ける。
その草履が地を蹴り、左手が札を飛ばす。
コマ送りのように遅れてゆく時間の中、霊夢は叫ぶ。
「私は、誰にも負けられないのよ!」
突撃してきた巫女に霊夢は札を飛ばして迎撃した。ただの札ではない、呪言を書き込んだありがたいお札だ。

 

妖怪に効果てきめんであるのはもちろんのこと、人体にも十分な効果がある。例えるならば紙の姿をしたボーリング玉。まともに受ければ骨の一本や二本は持っていく。その威力は巫女も承知だろう。
防御か回避か。どの道、決定的な隙は避けられまい。そこを突く。
巫女が大きく一歩を踏み出す。
「そこ!」
霊夢は回避と読んだ。
踏み出した足の地点から回避できる位置を瞬時に割り出し、針を飛ばさんと腕を振りかぶる。
決定的な隙だった。
「――なっ」
巫女は踏み出した足で、そのまま突っ込んで来た。
ぶち当たる札。巫女の身体は荒波にもまれる小舟のように大きく揺さぶられる。だが足は地面から離れていない。えぐれる肩など顧みもせずに巫女はただ一直線に霊夢に向かう。
一方の霊夢は完全に出遅れた。針を投げる動作を止めようにもその間に巫女は霊夢に到達する。結界を張ることも出来るが、果たして巫女の攻撃はそれで防ぎきれるものだろうか。
「――『夢幻呪印』」
囁かれる祝詞。それはスペルカードが生まれる前、幾多の妖怪を打ち倒してきた原初の霊術。無数の光が巫女の周囲に浮かぶ。その一つ一つが退魔必滅の力を持つ霊力の塊。
「っぁああああああああああああああっ!」
百人の男に百人の拳を叩き込まれたような衝撃。身体が粉になって魂だけが残ったと言われても納得できる。暴力的な神経パルスに脳細胞が焼き切れたのか、痛みはどこかへ飛んでいってしまった。
何の抵抗もできず、霊夢は地面に倒れ伏した。
「……ったく、本当にムカツクわねあんた」
途切れそうになる意識を無理矢理に繋ぎとめて霊夢は側に立つ巫女を見る。
「たぶん、才だけならばあんたの方が上ね」
わき腹を押さえながら巫女は言う。
最後の最後、霊夢が振り払った祓い棒の影響だ。霊力と腕力の限りを込めたそれは手榴弾の爆発にも等しく、霊力で防護処理されていない生身で受ければはらわたを丸ごと奪われていただろう。
「でも、怖くないのよ。あんたの戦いは軽い。ギリギリまで追いすがれても、決して越えられないとわかってしまう」
「……………」
「何が何でも敵を殺そうとする気迫。決断を無慈悲に貫く意志。そして自身さえも燃やし尽くそうとする覚悟。必死っていうのはね、相手か自分かどちらかを亡き者にするって意味なのよ。それから目を逸らしているようじゃ餓鬼ですら殺せはしない」
ふっと息を吐き、巫女は木に背を預ける。
「あんた、もしかして負けたの初めて?」
「これで二回目かしらね。いやもっとかも」
「そう。なら誇るといいわ」
「なによそれ」
「大抵の奴は負けを知らない。負けた時には死んでいるから。貴方は負けを知ることができた。それも命に手をかけられるような敗北を。それを誇って三途の川の船頭にでも自慢するといいわ」
「――生憎だけど」
ナメクジほどの歩みで霊夢は祓い棒に手を伸ばす。
いや、伸ばしているというよりは指先を震わしていると言うべきかもしれない。カリカリと爪先は地面をかき、その動作だけにも全力疾走のような息切れを起こす。
「あいつの面を見るなんてごめんなのよね」
「……あんた、本当に馬鹿ね」
巫女の祓い棒が一閃、霊夢の身体は空に舞った。

 

 

 萃香が白と言えば鴉だろうと白くなる。
力こそが全てである妖怪社会において、その頂点たる四天鬼の言葉は絶対だ。とりわけ普段は腹に闇でも飼っているかと思うほど深謀遠慮なくせに、突然降って沸く萃香のきまぐれは配下の妖怪たちにとって一種の天災であった。
だからこそ正体不明の四人組を連れ帰る間も特に疑問を持つことはなく、また面倒なことになったと腹の中で悪態をつく程度であった。
いつもの気まぐれ。いつものこと。
彼らの話が面白ければ酒宴の肴に話を語らせ、彼らの話が面白くなければ酒宴の肴にしてしまう。
異様な姿をしていようともその実はただの気狂い者であろう。例え悪鬼酒呑を討とうとする朝廷の手の者だとしても結果はそう変わるまい。人間ごときが酒呑を討てるなど彼らは最初から想定していない。
だから迎賓室の前で話が終るのを、あくびをしながら待っていた見張りたちは突然の大声に度肝を抜かれて飛び上がった。
「い、今のは!」
「酒呑様!」
慌てて武器を手に部屋へと飛び込む。だがそこにあった光景は見張りたちの想像とはかけ離れていた。
頭に手を当てうつむく萃香そしてその前であたかも先の声で驚いたように四人が身をのけ反らせている。
「しゅ、酒呑様?」
麦色の前髪の間から赤い瞳がギラリと睨む。
「失せろ」
「っ!」
「見張りもいらん! 言葉もいらん! 今すぐ黙ってここから出ていけ!」
「し、失礼いたしました!」
身を縮ませ、見張りたちは尻をまくって逃げてゆく。
その足音の反響が洞窟から完全に消えるまで、萃香は身じろぎ一つしない。
「――つまり」
萃香は四人の衣服や佇まいを今一度確認するようにじっくりと見る。その気配、その言動から欠片でもいいから嘘を見出したいと言うように。
「未来の世界じゃ妖怪が忘れかけられていて、そのごっこ遊びに興じているってのか?」
低く響く声にごくりと生唾を飲むアリス。
一人臆せず白蓮は頷いた。
「はい。妖怪たちは世界から忘れられ、幻想郷と言う場所へと集います。そしてスペルカードというルールの元、異変を起こしては退治されるのです」
淡々とした答え。その言葉を吟味するように萃香はゆっくりと呼吸する。
長い息を吐く。震える声で萃香は問う。
「鬼は」
言葉は豪胆無法な鬼神とは思えぬほど、すがるような弱弱しさがにじみ出ていた。
「鬼は、どうしたんだ」
「……ほとんどの鬼は人との戦いを辞め、地底へと去ったと聞いています」
「何故だ!」
「人は鬼を退治する術を編み出します。また鬼を退治するためにあらゆる手段を投じます。嘘もつきます。騙し討ちもします。そして鬼はそんな人に絶望した」
「っ――――!」
顔を引きつらせ、萃香は右手で左腕を掴む。長い爪が肉に食い込み血を流す。赤い筋が涙のように腕をつたう。
「……ふざけるな」
腕を鷲掴みにしたまま萃香はつぶやく。
「ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな!」
その声はだんだんと大きくなる。不安に顔を見合わせるアリスたち。
「違う! 違うだろ! そうじゃない! 鬼と人は! 妖怪と人間は!」
やがて全身を震わせながら萃香は立ち上がる。
「くそがああああああああああああああああああっ!!」
叫び、その拳が地面に叩きつけられる。
岩盤は砕け、アリスたちが座っていた場所を越えてひび割れが広がる。それは妖怪の山全体が嘆きを上げたかのような衝撃だった。
抱き合うアリスとムラサ。その様をじっと受け止める白蓮とナズーリン。
しばしの沈黙の後、萃香は地面から腕を抜く。
「くそ、がぁ……」
投げ出すようにあぐらをかき、萃香は自らが穿った穴をただただ見つめている。
「す、萃香?」
言葉をかけるアリス。
萃香は顔を伏せたまま返す。
「消えろ」
「あっ」
「私の前から、消えろ」
「行きましょう」
アリスの肩を叩き白蓮は首を振る。
ムラサとナズーリンはすでに出口に向かっている。アリスはもう一度だけ萃香を見た。
あれだけ大きく見えた鬼神の身体は、やはり童女のような小さなものだった。

あらかじめ「手を出すな」と命令されていたのだろうか、外に出ても配下の妖怪たちは何をするでもなく遠巻きにアリスたちを見ているだけだった。とにかくどこかに腰を下ろしたくて切り立った小川の側にアリスたちは座り込む。涼やかな川のせせらぎを聞いていると、昨夜の事も先程の騒動も丸ごと夢だったように思えてくる。
「そういうものなのね」
「何がですか?」
アリスのつぶやきに白蓮が答える。アリスはふー、とタバコでも吸うように大きく息を吐き、
「私なんかはスペルカードが導入されて喜んだからね。ああいう反応する奴がいて、ちょっと意外って言うか」
側に落ちていた枯れ葉を摘まんで川に投げてみる。ひらひらと舞った枯れ葉は狙った所とは全く別の場所まで飛んで、川の流れに乗っていつしか沈んでいく。
「だって戦うと痛いし怪我するし。それならお互い最悪の事態を避けて要求を通せる手段があるならそれに越したことないでしょう?」
「きっと彼女が望むのは要求ではないのでしょう」
「え?」
穏やかな口調で答え、白蓮は高い岩の上から川に飛び込むムラサを見る。上がる水しぶきに側に居たナズーリンが悲鳴を上げた。
「妖怪は何かしらのしがらみを持つものです。習性と言ってもいい。あの子たちがなかなか人を襲うのを止められないように。萃香さんにとって――少なくともこの時代の萃香さんにとってはその手段こそが重要だったのではないでしょうか」
「スペルカードじゃ満足できないってこと?」
「わかりません。でもきっと裏切られたような気分になったのではないでしょうか」
「あーあ」
岩の上に転がると、じりじりと背を焼く熱さが不思議と心地いい。ちょうどいい具合に顔に影がかかり、揺れる枝葉の間から太陽の光が漏れ見える。
「未来なんて知るもんじゃないわよね。萃香に悪いことをしたのかも。私、ネタバレとか大嫌いだし」
逆にネタバレをしたがる奴も居た。本を読んでいる最中に、三角帽子の魔女が何度悪魔の囁きをしてきた事か。
くすり、と白蓮を揺するような笑いを上げる。
「なに?」
「い、いえ。少し思い出しまして。さとりさんのことを」
「さとり? あの地底の?」
「ええ。こいしさんに聞いたのですが、さとりさんは小説が大好きだそうです」
「え。意外ね。むしろそういうの毛嫌いしそうなのに」
「本相手なら心を読まずに済むらしいからです。その上での心理描写は彼女にとって新鮮なようでして。それでですね、新しい本を手に入れるとキョロキョロ辺りを見回しながら逃げ回るように屋敷に帰ってくるそうなんですよ」
「なんで?」
「その本を読んだ者と出会わないためらしいです。もし心を読んでしまったら全て台無しですから。以前、偶然推理小説を読んでいた方に出会った時は、その本を投げ捨て一週間は不機嫌だったそうです。それからというもの本を手に入れると誰にも会わないようにして家に戻り、部屋にこもってしまうそうなんです。何だかその話を思い出しまして」
「なるほどね。あの偏屈顔が。それは面白そうね」
「ええ」
笑い顔を返し、白蓮は水面に映る光のダンスを見る。
「……でもやっぱり、終わりは来るのでしょうね」
「え、なんて?」
答えず白蓮は髪を風にかざす。
アリスが身体を起こそうとしたその時、
「うりゃ」
「っ!」
顔にかけられた冷たい感触に目を白黒させるアリス。そのままバランスを崩し、岩の上を滑り落ちて行く。
水音。アリスは川に飛び込んだ。
「げほっ! な、なに!?」
コケでぬめる岩。気道に入った水に咳き込む。ようやく水面に出てみれば、舟幽霊のにやけ面がそこにある。
「あ、あんたねえ!」
「あはは。水難事故にご注意を~」
大仰に逃げ回るムラサをアリスが追いかける。
その様子を眺めていた白蓮の横にナズーリンは座る。
「白蓮」
「はい。なんでしょうか?」
「こんなことを言うのはお角違いかもしれないが、今一度自分を見つめ直すのも良いと思うぞ」
沈黙。
「もう二度とこんな機会はないだろうさ。白蓮の中にある迷い。それに向かい合わねばどうにもならん。だろう?」
その言葉が意味するところを白蓮は知っている。
自分の中に残るしこり。
この世に生きるほとんどの人間が得られない機会を今、白蓮は得ている。
時代からして、彼が居る可能性は十分ある。
だが、それは――
「きゃっ!」
アリスの短い悲鳴に白蓮の思考は中断された。素早く腰を上げ、アリスの方へと飛び立つ。
「どうしました!?」
「ちょっと来て! 大変!」
岩場の影からアリスが顔を出す。その腕には紅白の巫女が抱かれている。瞳を閉じ、切り裂かれた頬からは血が滴っている。胸の傷も再び開いたようで、ずれた包帯の隙間から浅黒い血が滲んでいる。
「霊夢さん! 大丈夫ですか!?」
うめく霊夢。反応があったことにほっと胸をなで下ろし、彼女らは霊夢を岸へと引き上げる。
「白蓮、治せる?」
「大丈夫です。少々時間はいただきますが」
「OK。じゃあ縫合は私がするわ」
「ナズ。使えそうな薬草を探せますか?」
「ああ、やってみる」
「私も行くよ!」
白蓮の法力が細かな傷を塞いでいき、アリスの糸が傷口を縫っていく。さらにナズーリンとムラサが採ってきた薬草を使い消毒をする。
全身の痛みに霊夢の身体から汗が滝のように流れ出る。
全てを終えた時には日は真上に昇ろうとしていた。

「大丈夫ですか? 霊夢さん」
「……ええ、助かったわ」
草葉の陰に身を横たえながら答える霊夢。傷口から熱が出たのか、その顔は赤く、声もいつもの暴力巫女のそれとは思えないほど弱弱しい。
「誰にやられたの? もしかしてここに来る時に」
「違うわよ」
否定し、霊夢は顔を横に向ける。
「やられたのは、当代の博麗の巫女よ」
「は?」
ぽかんと口を開けるアリス。
「あんた、面白い反応するわね」
「な、なんで巫女が霊夢を襲うのよ?」
「……巫女性の違い、かしらね」
困惑顔をするアリスたちから隠れるように、霊夢は顔に腕を乗せる。岩場に沈んでいくような心地の中、霊夢は先ほどの戦いを思い出す。
ボロクソに負けて、アリスたちに助けてもらわなければ死んでいただろう。幻想郷を救うはずの自分が誰にも知られぬこんな過去でのたれ死ぬと思うと笑い事にもならない。空ではのんきにトンビが飛び、どこからか聞き覚えがある歓喜の叫びが聞こえる。
「……ね、ねえ。霊夢がこんなんじゃすぐには動けないわよね? 聖輦船も壊れているんだし」
何かを期待をするようにアリスは言う。笑みとも強張りともつかないその表情は後ろめたさと希望との板ばさみから生まれたものだろうか。
「アリスさん、それは」
「だ、だって」
うつむき、膝の上で両手を握る。
恐らくは誰もが考え、誰もが言い出せずにいた言葉を吐く。
「……少なくともここは千年の間は平和じゃない。人間と妖怪の争いはあるけど、私たちを狙う敵は居ないわよね? だったら」
声も体も震わせて誰もが言えなかったことを言う。
「――ここに居れば、いいじゃない」
否定する者はいなかった。
誰もがうつむき、口を開けないでいる。
一人、霊夢は目を瞑り、言う。
「アリス。わかっているでしょう」
「も、もちろん幻想郷を救いたいっていうのもわかるわよ。すごくわかる! で、でもそれならさ、千年待ち構えればいいじゃない。その間に修業でもしてさ。そうだ。連中と出合った瞬間、倒せばいいよ! そうすれば」
「それは困りますね」
声に誰もが石になる。
奇しくも日が天頂に届く時、陽炎のような静けさで彼女は水面に立っている。
「――早苗」
東風谷早苗がそこに居た。

 

 

「そんな! どうしてここに!?」
岩場で尻餅をつくアリス。まさしく幽鬼を見た表情で早苗を見上げる。そんなアリスを一瞥し、早苗は淡々と答える。
「逆に問います。貴方たちはどうしてここに来てしまったのでしょうか?」
「そ、それは」
答えられる者などいない。
押し黙る霊夢たちに早苗は井戸底のような瞳を向ける。
「率直に言いましょう。もう現在の幻想郷に帰って来ないでください。この時代で生き、そして死んでください」
一度言葉を切り、威嚇するように早苗は各人を見渡す。
「そうすれば私は手を出しません」
「あ、あんたは一体誰なの!?」
耐えきれなくなったようにアリスが叫ぶ。
早苗はほんのわずかに首をかしげた。
「東風谷早苗ですが?」
「嘘よ! だって、にとりが早苗は死んでいたって」
言ってしまった後で、はっとアリスは口に手を当てる。
背後から突き刺さる視線に、身体の熱が消えてゆく。
「アリス。にとりと会ったの?」
「そ、それは」
霊夢の問いに喉が鳴る。平静でいようとするのに視線はどこにも定まらない。
「言えませんよね? 魔理沙さんに逃がしてもらったのにその途中でにとりさんを殺してしまった、だなんて」
「っ!?」
「……アリス。あんた」
「ち、ちが……私は!」
「早苗さん」
声を荒げるアリスたちは、白蓮の一声で言葉を止める。
いつしか立ち上がっていた白蓮は水面に立つ早苗をじっと見つめる。
「教えてください。何故こんなことを?」
「と、言いますと?」
「神子は理想の国を作るためと言いました。紫さんは幻想郷を維持するためと。では貴方は? 貴方は何故彼女らに協力するのですか?」
「なるほど。貴方は勘違いしているのですね」
ゆらりと早苗の腕が動き、その袖から祓い棒が取り出される。緊張を走らせる霊夢たち。早苗はゆっくりと腕を上に上げていく。
「私が彼女らに協力しているのではありません。彼女らが私に協力しているのですよ」
「……どういうことですか」
「私は全ての答えを知っている。これから何が起こるのか。その終焉までの全てを。だからこそ、彼女らは私に協力した」
その身体が浮く。水面に一つの波紋を残し、早苗は天たる頂きに昇ってゆく。
天の頂きに挑むように祓い棒が太陽と重なる。
「空が!」
ムラサに言われるまでも無い。妖怪の山を照らしていたはずの太陽が虫食いのように欠けてゆく。だがおかしいのは周囲の動物たちが一切反応していないことだ。
「な、なに」
気付く。
先ほどまで触れていた岩も木々もまるで雪のように掴めない。花の匂いも川のせせらぎも消え、五感が一つずつシャットアウトされて行く。
「皆さん!」
手を伸ばす白蓮。その手を掴み合い、霊夢たちは手と手で輪を作る。掴んだ手の汗と温かみだけが生を実感させてくれる。もはや足場の感覚すらなく、周囲の景色は水の滲んだ水彩画のように溶けて流れてゆく。
「未来をなんて知るものではない。そう貴方は言いましたね」
天上の黒い淵は世界を覆わんばかりで、その中心に立つ、早苗の声だけがはっきりと聞こえる。
「見せてあげましょう。これが未来です」
早苗が腕を降ろす。
黒き深淵が霊夢たちへと落ちた。
「―――――っ!!」
瞳を閉じて手を握り締める。隣に立つ者と絶対に離れまいと指を絡めた。
想像していたような衝撃はない。
無音。
無臭。
無明。
無感。
やがてその中に一つの感覚が戻る。
風。
「ここは……」
霊夢たちは空に居た。
ハケで塗られたような雲の下には赤い大地が地平線の果てまで広がっている。そこには草木や水はなく、ほんのわずかに枯れ果てた木々の残骸が転がるばかり。
赤い地面に浮く白いモノは塩か何かかと思ったが、よくよくみればそれは白骨化した無数の遺骸であった。
「良く見ておくのですね」
見れば側に早苗が居た。むっつりと口を閉じ、汚物でも見るかのように地面を睨んでいる。それは霊夢たちが初めて見る早苗の嫌悪の表情であった。
「早苗! ここは!」
霊夢の言葉に即答せず、早苗は自身の両腕を見る。手首の黒い痣は、無数の蟲であるかのようにじくじくと蠢いていた。
「幻想郷ですよ」
早苗の答えは単純にして明快だった。
「ここは未来の幻想郷。貴方たちが居た幻想郷よりもさらに先の未来の」

 

――幻想異郷伝<中>へとつづく――



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